小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

13. 近代資本主義から遠ざかった明治・昭和


〔2〕小資本も巨大資本も自由ではなかった

(3) 明治新政権は改革を断行したのか?

 明治維新後にできた新政府は、諸藩の借入金を引き継ぎました。例えば、薩摩藩400万両、長州藩68万両、土佐藩190万両など何れも巨額です(幕末に高率のインフレがあったので、現在価額への変換は難しいのですが、3藩分合計で658万両、現在価値に換算して3,000億円から6,000億円程度になります;米1石=1両、米1石=150キログラム、米1キログラム価格を300円から600円として)。1873年に行われた明治新政府の旧藩の債務整理資料によると、旧藩の債務総額はおよそ7,400万両とされているので、先ほどと同じように現在価値に換算すると3.3兆円から6.7兆円となります。

 しかし、経済学者の高橋亀吉は、明治新政府はいくつかの債務取り扱いルールをつくり、結果、額面債務総額のおよそ8割を切捨てた(高橋は、金利の引き下げや返済期間の延長を実効上の切捨て率に換算して計算しています)ので、結局明治新政府が引き継いだ旧藩の債務はおよそ1,500万両と試算しています(出典:梅村又次・中村隆英著『松方財政と殖産興業政策』〈1983年〉、原典:高橋亀吉著『日本近代形成史』〈1968年〉第2巻〕より)。現価に直すと0.7兆円から1.3兆円となります。そして、高橋らの主張は、これだけ大幅な債務の切り捨てが行われた結果、京都の大豪商を初めとする多くの幕末期の大商家が没落したというのです。

 その理屈は理解しやすいのですが、しかし長者番付が示しているように(その説明はここ)、多くの大商家は、明治維新を乗り越えたのです。諸藩の債権踏み倒しに何度もあった多くの大商家は、厳しくとも倒産を免れるほどには強靭な財務構造を日頃より備えていたためであると思われます。大名貸しが一番多額に上っていた鴻池が破綻せず、二流と言われても明治期には有力財閥の一つとして生き残り、なお成長をなしたことがそのことを証明しているように思えます。勿論、元来財務体質が脆弱であった商家の倒産を速める効果をもったでしょうが、本質的なことではありません。

 しかし、1880年代から1890年代にかけて、旧来の商業資本の生き残りが急激に難しくなりました。つまり、幕藩体制の崩壊と不十分な大商業資本の債権の大幅な切り捨てといった新政府の旧来資本への苛烈と思える対応が旧大資本を没落させたのではなく、明治維新以降に起こった経済活動の変化に旧い大商業者が追随できなかったことが、新旧経済者の入れ替わりの原因であり、そして新興商業者ですら、10年間以上踏ん張れなかったことの理由でもあります。開国により、貿易を通して外国資本との接触が増した結果、商業構造が急速に変化した、そのことが、旧大資本をも新興資本をも大きく揺さぶったのです。そして、政商として政府にすり寄り損なった多くの民間資本が翻弄されたのが、この時期です。

 高橋亀吉を代表とする多くの権威ある経済学者は、「(新政権の旧幕府や諸藩の多くの債権の切捨て、株仲間制度の廃止、流通通貨量の縮小と言った施策がもたらした社会の:以上、小塩丙九郎註)混乱と打撃の大部分は,爾後〈じご〉のわが経済の近代的発達に必要不可避の性格の強いものであって、所要の改革を一挙に徹底的に断行したことが、後の発展の基礎になった(高橋亀吉の記述を引きつつの中村隆英の記述;中村隆英著『明治維新期財政金融政策展望』〈梅村又次・中村隆英編『松方財政と殖産興業政策』蔵〉〈1983年〉より)」というのです。


 政府財政のがほぼ初期化されたということについてはそのように言えるのかもしれませんが、経済体制全般についてはそうではない、というのが小塩丙九郎の見方です。むしろ、明治新政府が経済政策の大構造的転換を行わなかったことが、後発産業革命国の利点を活かしきった高度経済成長の達成に失敗して、にもかかわらず世界一流国としての見えを張ろうとしたことが、1945年の大破綻に至ったのだということを、『小塩丙九郎の歴史・経済データバンク』は証明しようとしています。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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