小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

13. 近代資本主義から遠ざかった明治・昭和


〔2〕小資本も巨大資本も自由ではなかった

(2) 江戸時代の商工業者はどう生き残ったか?

 ところで、江戸時代に有力であった商業者たち一人一人は、明治の時代に入って、その後どうなったのでしょうか? 武家同様に、その多くは没落したのでしょうか?、それとも市場の自由を得て元気になったというのでしょうか?

 明治に入って7年経った1875年にまとめられた「長者番付」には270家が取り上げられていますが、その構成は「江戸期長者」が89家、「幕末新長者」が52家、「維新期新長者」が129家となっています。つまり、明治期初期の長者ランキング上位270位以内に幕末以前(1949年)から羽振りのよかった商工業者231家の中で生き残っている者がまだ4割近くはいたということです(下のグラフを参照ください)。ちなみに、幕末新長者、或いは維新期長者とは、1858年に日米修好通商条約が締結されて、横浜を初めとして6つの港を開いたことをチャンスと捉え、洋反物、武器、靴、煉瓦〈レンガ〉、書籍などの輸入を行うことによって利を得て、それを元手に米相場でさらに所得を重ねるなどしてのし上がった者たちが中心です。

長者番付
出典: 宮本又郎著『日本企業経営史』(2010年)掲載資料を素に作成

 それでは、株仲間に属していた商工業者それぞれは、その後長く生き延びて繁栄したのでしょうか? 株仲間という組織は同業組合と名を変えて生き残りました(その様子はここに書いています)。しかし、個々の商工業者の生き残りは、そう容易ではありませんでした。例えば、江戸時代に長者番付の上位にいた者たちは、1875年(明治8年)の頃までは、その4割が踏みとどまっていたことにはことに触れましたが、1888(明治21)年には1割にまで減っていました。その他の9割は没落したのです。そして、横浜辺りを中心に機敏に動きまわったりして財を得た明治に入ってからの新興商工業者のうち、10年間以上も長者番付上位に留まっておられた者は1割に過ぎません。さほどに、新旧経済人の入れ替わりは激しかったのです。

 以上のことは、幕末から維新にかけての混乱が多くの大商業者たちを没落させたという通説が間違っているということを示しています。直前まで有力であった大商業者は、明治時代になって10年経っても、なおその4割が長者番付上位に居座っていました。長者の象徴である京都の小野、島田なども明治新政府の抜本的政策転嫁によって没落したとよく説明されるのですが、この2家の没落と三井の発展が、そのような政策変更によってではなく、専ら新政府との具体の政商としての関係の変遷の上にあるものであることは、後に示します(ここ)。

 明治時代に入っても、株仲間は同業組合というように装いを変えて生き続けていました。それでもこのような商業者の入れ替わりがあったのは、舶来品の登場に触発されて様々な新たな種類の日用品や建材等が次々に現れたために、市場が多いに揺さぶられたからでしょう。「維新長者」が旧来の長者を急速に凌いでいったことは、そのことを表しています。商業者の入れ替えが激しかったことと市場競争が制約されていることは、そのようにして矛盾なく理解できる、と小塩丙九郎は考えています。市場が規制されていなければ、もっと創造的な商品が開発され、新たな産業が興っていたかもしれません。

 その他に、江戸時代から明治にかけて成功裡に時代を越えていったもののひとつは、農村部にあった紡績、織物等の繊維産業です。生糸、そして20世紀に入ってからは綿糸と絹・綿織物が日本の中心的な輸出品となりました。さらにその頃から、国民の生活水準も向上し、内需も拡大しました。このため、江戸時代の繊維産業資本が成長したのです。

 紡績は、機械化が進んで工場経営者が次第に規模を増したのですが、織物産業では機械化が思うほど進まず、長らく問屋制手工業のままであったので、紡績業ほど経営規模が大きくなることはありませんでした(1932年東京市と1934年名古屋市の総平均では、綿糸紡績業の1工場当たり平均職工数が296人であったのに対し、織物業のそれは13人〈尾高煌之助著『二重構造』《岩波書店『日本経済史6 二重構造』〔1989年〕蔵》掲載データより〉)。また、その他内需の拡大とともに、醤油、酒造、味噌造り等の在来型の小規模工業者も緩やかに成長しました。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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