小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

13. 近代資本主義から遠ざかった明治・昭和


〔2〕小資本も巨大資本も自由ではなかった

(1) 株仲間は生き残った

 幕末から明治維新にかけて、商工業者たちはどうしていたのでしょうか? 武士や公家の活躍や没落についての話はたくさん繰り返し聞かされますが、それ以外の人が幕末から明治をどう生き抜いたのかということは、国民の多くにはほとんど伝えられていません。しかし、武士や公家以外の人々にも、大きな変化は起きていたし、その変化のあり様が、新時代の構造を決めるに当たって大きく影響しています。社会が統治者のみで構成されているわけではないのだから、当然のことです。しかし歴史学者たちの常で、関心のほとんどは為政者たちに向けられて、それ以外の人には向けられないのです。しかしそれでは、時代の変化、特に経済の変化、をきちんととらえられません。

 江戸時代の大都市、京・大坂・江戸3都で経済を主に担っていたのは、株仲間を構成する商人たちでした(株仲間についての詳しい説明はここ)。そしてそれらは、いわば江戸幕府経済体制の中での特権者でした。

 明治新政府は、1868(明治元)年、商業の振興と間接税の増収を図るために京都、大阪、東京の3都に商法司〈しょうほうし;徴税と勧業を行う機関〉を設置し、そのうち商業を振興するために商法会所を設けたのですが、その商法会所が「商法大意」を布告し、株仲間を一旦認めました。但し、株仲間がそれまで持っていた特権をすべて取り去り、政府との関係を失くして、仲間の数の制限を禁止して新規開店自由としました。しかし、商法会所が他事に忙殺されているのをいいことに、株仲間が旧来通りの運営方法を変えなかったため、1872年、遂に株仲間を解散させる通達が発せられました(以上、水原正亨著『明治前期における流通機構の再編 1.近江八幡の肥料組合の場合』〈インターネット掲載論文〉による。

 しかし、これに旧来の商工業者が唯々諾々と従ったわけではありまえせん。商取引に多くの混乱が生じているとして、大阪を中心に同業組合が生まれました。名を変えてはいますが、実態は変わりません。株仲間を解散させる勢いを駆って、政府は、この動きにも当然制限を加えようとしたのですが、なかなかうまくはいきませんでした。

 明治維新から10年近く経った1877年、政府は商法会議所を設けます。これは、不平等条約改正に向かう産業界の活動の土台をつくろうとしたもので、大蔵卿大隈重信らが、下野していた渋沢栄一(渋沢についての詳しい説明はここ)らに組織させました。当初は、アメリカの民意を基礎として参加自由のchamber of commerceに倣おうとしたものであったのですが、1890年には商業会議所条例を制定して、ドイツやフランスのような公権力組織の一部をなす参加を強制するものに改変されました。言ってみれば、幕府や諸藩がそうしたように、公権力によって商業者を強力に監督しようとしたのです。


 参加を強制された商業会議所で、商業者たちは、政府の言われるように条約改正のための嘆願活動などを行うのですが、会費まで強制的に払わされてそれだけが成果であっては満足するはずもなく、結局は、株仲間変じて同業組合の活動をここで行うことになります。

 一方、政府商工省も、紡績業の発展を図る中で、全国の紡績業者のカルテルを結成させ、政府の強力な統制体制を実現し、品質と価格の管理を行って輸出産業としての製糸産業、特に初期には生糸産業を振興しようとしました。当時の日本にとって最も重要であった輸出産業について、自由な市場競争を認めなかったのです。この紡績業保護政策は、1881年に設置された農商務省にも引き継がれます。この紡績業統制政策は、生糸の高度の品質管理を実現し、粗製乱造に走った茶産業とは異なり、明治初期の日本の輸出を支えて、大きな効果を生んでいます。こうして、政府官僚は、商工業者の自由な活動を束縛することによって、むしろ輸出産業を新興できるとの自信を深めました。こうした農商務省を初めとする政府の産業統制政策についての観念の中で、同業組合はついに認知されるのです。

 1884年に農商務省は、「同業組合準則」を制定して、産業全般について小規模生産所の組織化に乗り出します。これは、当時拡大しつつあった日本から中国への輸出が専ら中国商人によって取り扱われ、その巧妙な価格操作によって日本商人が翻弄され被害を受けていると判断された上で、その当時予想されていた外国人の内地雑居(結局は、多くは生じませんでした)によって日本の市場支配が進むことを恐れたということが大きな要因でもあったといいいます(石井寛治著『日本の産業革命』〈1997年〉による)。

 こうして、近世の徳川幕府と諸藩によりつくられた株仲間制度は、明治政府の先導する商業会議所及び同業組合の制度の中で、その実態が近世に近い形で蘇ったと言っていいと思います。或いは、同業組合が株仲間と違って職人の組織を許さず、1業種について問屋を有力者とする業種すべての関係者を1組合に糾合することを要求したことは、株仲間以上のカルテル組織による業界規制を強化したとも言えます。同業組合は、価格管理を行うのみならず、職人等の賃金の規制、そして職人等の雇用規制まで行っています。


 歴史経済学者の中には、政府は経済自由化策を追求したのであり、同業組合は加入を強制するものではないと主張する者もいますが、政府自身の調査報告書に「尚隠然昔の株制度実効せられあれば」と記したのは、20世紀に入って6年も経った1907年のことでした(『農商務省山林局室蘭外16市場木材商況調査書』〈1907年〉〈藤田貞一郎著『近代日本同業組合史論序説』《1981年》より)。さらに、1900年には重要物産同業組合法が制定されて、同業組合についての管理・規制は準則によるものから法律へよるものへとさらに強化されています。

 政府は当初、輸出品の品質保持等を目的として、輸出産業者を中心にカルテルを政策的に構成してきたのですが、重要物産同業組合法に基づき設立された同業組合のうち輸出産業にかかわるものは当初5割あったものが、次第にその比率を下げ、1940年には輸出産業にかかわりのないものが全体の4分の3を占め、その最上位にあったのは木炭産業(15.9パーセント)でした(下のグラフを参照ください)。

同業組合数
出典: 白戸伸一(明治大学博士後過程53入学)著『同業者組織化政策の展開過程―産業資本確立期における動向を中心としてー』掲載データを素に作成。データ原典は、1912年と1924年については『日本経済統計総覧』、それ以外の年については『重要物産産業同業組合一覧』。なお、1903年についてはデータ不在のため、前後の年で直線補完した。また、輸出用製品関連同業組合数としては、養蚕業、織物、紙・紙製品、陶磁器、金属製品及加工品、漆及漆器に係る同業組合すべての数とした。

 しかし、政府は一転して1916年に重要物産同業組合法を改正して、外国貿易に係るもの以外については、同業組合が、独占、価格統制、賃金規制、雇用規制を行うことを禁止しています。又、その実行を図るため、同業組合規制に拠らない公設市場を設置してもいます。工業界は工業者のみによる組織の設立を望み、それは1925年の重要輸出品工業組合法となって結実します。また、1928年には百貨店が同業組合から脱してもいいことを定めています(重要物産同業組合法の改正)。さらに、1932年には商工を分離する商業組合法が制定されています。

 第1次大戦の頃より、問屋が中心となっている同業組合より、工業振興のための工業者の利益を重視するように政府の考えが変わってきたのだ、と小塩丙九郎は推察しています。同業組合の特権を取り払ったことについて、これは政府が商業自由化を求めたのであると歴史経済学者たちは理解するのですが、しかし、そうではなく、管理することがより重要な産業に属する企業について、より直接的に管理しやすい環境を政府がつくったと解釈すべきである、と小塩丙九郎は考えます。政府が直接個別に管理・監督できる財閥企業(ここで詳しく説明しています)については、当初より同業組合に属する義務を免除していることは、上の様な政府の政策意図の一環として無理なく理解できます。


 1916年に重要物産同業組合法を改正して同業組合の権限を減じたのですが、しかし、その後も国内用製品を専ら扱う同業組合は輸出用製品を扱う同業組合よりさらに勢いよく増え続けています。また、政府による経済規制の力が強まり、さらには経済統制に至る1930年代に入って同業組合の数が増加から減少に転じています(上のグラフを参照ください)。このことは、1916年に法律により権限の多くが規制されたにも関わらず、実態上は多くの組織内(闇)規制が生き続けていたことを推察させます。その権限の多くを突然奪われた団体が、それ以前と同様の勢いで増加し続けることは、不合理であり考えにくいからです。

 同業組合の規約の中から、種々の市場規制に関する文言が削除されたことが、直ちにそれらの行為の全面停止に至ったとは思えません。なぜなら、価格協定、賃金協定、雇用協定といった類のものは、商業者等にとって死活を決するほどに重要な事項だからです。現在の“業界”でも様々な自主規制や談合が行われていますが、それらは白日の下に出れば独占禁止法等の法令に反するものです。しかし、各種活動は厳然として行われています。

 しかし、歴史経済学者の調査は文書主義に依っているので、そこのところまでは分からないのです。しかし、違法行為を公式文書に残す愚行を犯す者はいないでしょう。実際にそれらの行為が停止したかどうかは、私書を確認しなければ分かりませんが、それは誠に難しいことです。実際には、法律によらず、内部の談合により様々な実態的規制を行い、さらには政府官僚と結び付き補助金、減税といった恩恵を得る、或いは入札談合するという体制は、太平洋戦争後の「護送船団方式」の時代へと連綿と続いていくことになります。但し、この小塩丙九郎の見解は、次第に商業の自由化が政府によってもたらされたという歴史経済学者の一般的認識とは違っているので、どちらの見方をとるかは若い皆さんの判断にかかっています。

 太平洋戦争中の1943年に同業組合制度を成立させていた重要物産同業組合法が廃止され、同じく工業組合法と商業組合法も廃止されて商工組合法が制定されます。しかし、この時期、経済統制が著しく強化されていて、自由な経済活動などかけらもなかったことは、誰もが認めるところでしょう。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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