小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

13. 近代資本主義から遠ざかった明治・昭和


〔1〕民業の官営化が進んだ

(10) 海軍官僚による海運産業支配の完成

 日露戦争後、ポーツマス条約締結後に日本とアメリカの関係は急速に冷却した国際政治環境にあって、ロシアの太平洋艦隊とバルチック艦隊を破った(1905年、日本海海戦)海軍の仮想敵はロシアからアメリカに変わり、太平洋の制海権の確保が海軍にとって重要となってきました。そのため、海軍は、髪をふりほどくほどの勢いで、国力のすべてを建艦事業につぎ込むよう強力に政府に働きかけることとなります。

 国力を挙げてとなると、海軍のみの力には限りがあり、商船を活用することを考えるようになります。商船は、戦時には、改造工事を施して艦船に転用できるからです。そこで、艦船は海軍工廠で、商船は民間造船所でという区分けの意味が小さくなったのです。

 特に、ワシントン海軍軍縮条約締結(1922年)により戦艦、空母、巡洋艦という主要艦についての所有総トン数がアメリカに対して6割に抑えられることが決定すると、対アメリカ戦に備えるために商船に予め戦時の艦船への転用を容易とする設計を施す(「優秀船」と称して、補助金を付けて建造させた)などして、潜在的な艦船群として用意しておくことの重要性は増しました。そのために、財閥の持つ大規模造船所を海軍の管理下に置くということが重要だと海軍官僚が考えたであろうことは、おおよそ察しが付くというものです。海軍官僚が、造船産業の民営化推進ということに興味を持つはずはありません

客船の空母への改装
客船“新田丸”から空母“沖鷹〈ちゅうよう〉”への改装
〔画像出典: Wikipedia File:Nitta-maru 1940.jpg(新田丸)、File:Imperial Japanese Navy aircraft career Chuyo.JPG(沖鷹)〕

 つまり、艦船の建造が民間造船所でも行われるようになったのではなく、海軍が工廠と大規模民営造船所の両方を、その実質的管理下に置いたのです。そして、大きな受注額と高利益率を得た財閥企業は喜んだことでしょう(財閥についての説明はここ)。財閥は、事業開始時に造船所施設を破格の安値で政府より譲られたのみならず、長期間にわたって経営の安定まで保証されたからです。ここに、民営としての日本の造船業の姿はまるでありません。

海軍官僚による造船産業支配は、
段階を追って進んだ。
  1. 民間造船所への艦船発注

  2. 商用船の軍用船徴用のための設計内容の指導

  3. 造船・運用のすべてについての統制

 さらに、経済統制を強める政府の一貫した政策遂行の中で、太平洋戦争開戦を直前にした1941年2月に、造船事務所監理戦時特例が交付され、艦船のみならず商船の建造もともに海軍大臣の所管とされることが決定し、4月には海軍大臣の指揮の下、100トン以上の船舶すべてを管理する船舶運営会(法人)が発足しています。これによって、海軍官僚は財閥の経営する巨大造船所のみならず、全国すべての民間造船所に対する建造、そしてさらに運営も直接指揮する権限を得て、半世紀にわたって海軍官僚が追求してきた造船産業管理体制は完成しています。

 そしてこのとき以降、海軍官僚は、工廠6割、民間造船所4割という原則を捨て、専ら工廠による建艦力強化に走りました。新造船に対して、その進水量の3倍にも及ぶ商船が沈められているのでは、民間造船所に戦艦建造に余分に力を割く余裕はなかったのででしょう。しかし、それでも、本気になったアメリカの建艦増強策がもたらした建艦能力の拡大には遠く及ぶことがなく、太平洋戦争開戦より半年後のミッドウェー海戦大敗北を境に、日本とアメリカの太平洋方面での海軍力は逆転して、その後急激に不利な状況は圧倒的なまでに広がっていきます。建艦能力に劣るのみならず、自動追尾装置を備えたアメリカ潜水艦の魚雷攻撃に、無防備な商船と、防御力が脆弱な日本の艦船が次々と沈められたからです。

 明治期から昭和前半に至るまで、日本の造船産業が近代資本主義体制下のものとして経営されたことは一瞬としてなく、造船産業は実質的に海軍組織の一部として発展しました。しかし、太平洋戦時下で、材料補給線を失って造船能力を失くした造船設備は、アメリカ軍からほとんど空襲されず、太平洋戦争が終わった時にはその施設の98パーセント(トン数ベース)が残されていました。そして、その後の造船産業のあり方については、アメリカ占領軍の方針の決定を待つことになります。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
©一部転載の時は、「『小塩丙九郎の歴史・経済データバンク』より転載」と記載ください。



end of the page