小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

13. 近代資本主義から遠ざかった明治・昭和


〔1〕民業の官営化が進んだ

(9) 民営造船企業は、海軍に吸収された

 明治政府は、徳川幕府から受け継いだ造船所のうち、長崎造船所と兵庫造船所の2つを、1887年に、それぞれ三菱と川崎正蔵(元薩摩藩御用達商人、払下げ後直ぐに川崎造船所〈川崎重工の前身〉を設立)に払い下げました。それぞれの払下げ価格は、1885年の財産評価額に対して100パーセントと59パーセントと比較的高いのですが、それでも平均割合(241パーセント)に比べては随分と低いものでした。さらに、政府が投資した資本総額に対する割合は、各々41パーセント、22パーセントとさらに低くなっています。三菱と川崎が政府から受けた経済的恩恵は随分と大きかったのです。

 このことは、明治新政府の払下げの性格の一端をはっきりと表しています。事業を始めたときに、会社は大きな恩を政府に負っているわけですから、そのことがその後の事業展開における政府との関係に大きな影響を与えたであろうことは容易に推察できます。


 以上の2社に払い下げた以外の造船所は海軍に引き渡され、海軍はそれを基礎に、呉海軍工廠造船所(1903年設置)、横須賀海軍工廠造船所(1889年設置)、舞鶴海軍工廠造船所(1901年設置)を建設して、大きな造船能力を獲得していいます。そして、海軍の造船所では艦船を、そして民営造船所では商船を建造するというように役割分担がされました。しかし、その区分けは、長く維持されませんでした。

官民艦船建造量
出典: 小塩丙九郎が個々の艦船の履歴データを収集して統計処理して作成。

 日露戦争後の1911年に、海軍は神戸川崎造船所に巡洋艦榛名(26,330トン)を、1913年には三菱長崎造船所に戦艦霧島(36,668トン)をそれぞれ発注し、それ以降、海軍は新造艦のおよそ6割を工廠で建造し、そして残りの4割を民間造船所で建造するというように方針を大転換しています。この方針転換については公文書で確認することはできていませんが、統計を作成してその結果数値を読みとると(上のグラフを参照ください)、艦船建造総トン数は、期間によって大きく変動していますが、官民の分担割合は随分と安定しているところから、そのように判断されます。

 このことは、海軍が海軍工廠と民間造船所を一括して管理しようとしている方針があったことを推察させます。それまでは、艦船は専ら海軍工廠で建造され、民間造船所に対して小型艦の建造か修理のみを発注しており、その発注金額も少なく、或いは保証した利益率も低いものでした。新造艦船建造契約額は、民間造船所の受注総額の4分の1ほどしかなく、その利益率は、輸出用船舶、一般官需用船、国内民需用船に次いで最も低かったのです。

 当時の高度の機械技術を駆使した最大の工場は、造船所であり、ここに民間機械職工の半数以上がいます。しかし当時の日本の造船技術は国際水準に達してはいませんでした。だから、例えば中国大陸の河川でも運航できるよう平底とするなど地域の実情に合わせて1隻ずつ注文設計される貨客船は造れても、建造速度と低価格が要求される国際競争の厳しい標準貨物船を日本の造船所はほとんど作れなかったのです。日本の民間造船所は、輸入した中古貨物船の整備や修理に忙しくしていました。


 しかし、榛名の発注以降は、発注金額が巨額になり(榛名は1,335万円)、利益率も他を越える高率(17.2パーセント)となりました(沢井実著『機械工業』〈岩波書店『日本経済史4 産業化の時代 上』《1990年》収蔵〉より)。これは海軍の造船政策についての方針が大転換されていることを示すものですが、その背景には、世界の艦船建造をめぐる環境の変化がありました。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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