小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

13. 近代資本主義から遠ざかった明治・昭和


〔3〕金融界は近代化されなかった

(4) 急速に進んだ銀行合併と農民の大負担

 勿論、判断を間違った資産家に多く貸し付けた金融機関が不況時に破綻するということによって金融機関もリスクを負うということはありましたし、実際に明治期に入って星の数ほどつくられた銀行は、不況の度によく破綻しました。そしてそのことが呼ぶ経済混乱を避けようとして政府は、1927年に銀行法をつくって小資本の銀行を禁止し、大合併を進めました。普通・貯蓄銀行は、1901年には最大2,334行を数えるのですが、1932年には4分の1近い625行に減り、さらに経済統制が進んだ1945年にはその1割に近い65行にまで整理されることとなります(下のグラフを参照ください)。

銀行の数
出典: 今西重郎著『数量経済史論集T−日本経済の発展』(1976年)巻末掲載データより作成(統計数不整合の年〈1908、1909、1914 及び1921年〉については、破綻による減少数で調整)

 そしてその頃には、増税により膨らんだ政府歳入と半ば強制した国民の郵便局預金により大蔵省預金部(現在の財務省資金運用部の前身)から国策銀行(日本興業銀や日本勧業銀行など)に流された資金がおおいに優越することになり、急速に肥大化した軍需産業を支える資本となり、民間金融機関の役割は、急速に小さくなっていったのです。

 産業革命期にあった、もう一つの金融機関の形態のことも触れておかなくてはなりません。それは、「機関銀行」と呼ばれたもので、企業を起こすに当たってその資金調達を資産家の株式購入に頼るばかりでなく、銀行を起こして零細個人から資金を集め、それをその企業を主な対象として融資するという銀行のことです。融資先がほとんど限られているので、その銀行は、融資先の企業と運命を共にすることになります。産業革命期に銀行の破綻が多かった(1902年から1919年まで、及び1920年から1932年までの間に破綻した銀行の数は、夫々443行と566行)理由の一つが、この機関銀行の存在によります。

 ただしかし、この機関銀行というあり様は、日本固有のものであったというわけではなく、欧米の方法を真似たものでした。日本の産業革命期には、多くの経済混乱が生じていますが、それは日本の政府や資本家が近代経営に慣れていなかったからというより、日本は欧米先進国の産業革命が経験したよいところ、或いは悪い所を含めた多くの経験を共有したというべきです。しかし、イギリスやアメリカは、それらの経験を経ながら民間金融機関が先導する近代資本主義経済社会に発展していったのであり、一方、日本は政府が強烈に産業界を管理、或いは統制する国家社会主義体制に進んで行ったのです。勿論、その違いは余りにも大きいと言えます。

 そして、最後に、忘れられがちなのですが、日本の産業革命を農民を初めとする多くの経済的には零細な人々が支えたということを付け加えて指摘しておかなければなりません。明治初期の商工業資本は、幕末期までに蓄積した資本を元に新規事業に取り組み、或いは紡績、織物等の伝統的産業の拡大に努めたということは既に述べました。しかし、それを可能としたのは、農業者からの税金を介した資本の移譲があったことを理解する必要があります。

 明治政府の租税収入のおよそ8割は農業者の支払う地租によっており(1883-87年;86.9パーセント、1898-1902年;73.7パーセント。なお同じ時期の国内純生産に占める農業の比率は、それぞれ、45.9パーセントと40.1パーセント。農業者の租税負担率は以降次第に低下しますが、どの時代においても農業者の租税負担率は国内純生産額に占める農業の割合を大幅に超えています)、それは、極めて低廉な労賃を根拠として農地主が得た所得をその財源としていました。

 幕末から明治初期にかけて、大地主への土地の集約が猛烈な勢いで進み、1883年には小作地率が全体の3分の1を超えていました(35.9パーセント;北海道を除く)。それが最も加速されたのは、西南戦争後の大蔵卿松方正義が主導したインフレ対策により生じたいわゆる「松方デフレ」の頃であり、返済不能に陥った多くの零細農家が担保の土地を手放したのです(八木宏典著『2-(2)農業』〈岩波書店『日本経済史4-産業化の時代 上』《1990年》蔵>より))。そしてそうして得た地租の多くを政府は鉄道、港湾、通信基盤、道路などの社会インフラの整備と軍備に充てました。そしてこれは当然のことながら商工産業に直接活用されます。

 政府歳入の大半が地租によるということは、商工業者の負担した税率が極めて低かったということを意味しています。所得税や或いは都市部の地租が、徳川幕藩体制期から引き続き低く抑えられていたからです。その上で、商工業者は、農村から極めて低廉な労働力を獲得することができたのです。ここでも、西南雄藩の武士たちがつくった新政権は、税に関しては農民に大きく依存するという体制をそのまま引き継いでいたということです。

 つまり、商工業者は、@低い税率、A低廉な労働力、B政府負担による社会インフラの急速な整備、という3つの恩恵を受けていたのであり、そしてこの財源のほとんどすべては農業者、特に農民から得ていたと言えます。なぜなら、地租を負担した地方の地主は、商工業者ほど資本を蓄積してはいませんでしたが、農民の非常に低廉な労賃によって比較的大きな所得を得ていたからです。民間企業の事業資金の供給者は、幕末期の蓄積資本を元に、さらに蓄積を重ねた自身の資本であり、それに廃藩置県によって碌を失った士族と華族が政府から得た公債を元手とした投資資金でした。(通説に反することですが)地主資本は、商工業資本に多くの資本を供給していません。

 政府は、国民に郵便貯金を半強制的に促し、そうして集めた零細資金と、さらに資金運用の安全を求める富裕者の貯金を合わせて、大蔵省預金部(資金運用部の前身)を通して半官半民金融機関として創設された日本勧業銀行(1897年創設)、北海道拓殖銀行(1900年創設)、日本興業銀行(1902年創設)の貸付事業資本とされ、地方公共団体の災害復旧を含む公共事業資金や農業資金、或いは救民事業資金に充てられました。この施策金融の全金融事業に占めるシェアは1930年には3分の1以上(35.8%)を占めるまでに拡大していました。

 このように、日本の多くの国民が、低賃金での労働力を提供するのみならず、産業振興に必要な資本をも懸命に注ぎ続けたということを、現代の日本人は肝に銘じて記憶しておくべきだ、と小塩丙九郎は考えています。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
©一部転載の時は、「『小塩丙九郎の歴史・経済データバンク』より転載」と記載ください。



end of the page