小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

13. 近代資本主義から遠ざかった明治・昭和


〔3〕金融界は近代化されなかった

(3) 民間資本はどのように都合されたのか?(後篇)

 こうして見ると、19世紀末から20世紀初頭にかけての近代産業資本についての金融は、直接金融によるところが大きいと結論付けてもよさそうです。しかし、議論をそう簡単ではなくしている理由の1つは、この高い自己資本比率を実現している多額の株式資本(社債の額は無視できるほど小さい)が、金融機関の融資に依存しているところが無視できないほどに大きいことです。

 先ず第1に、この頃の株式は、既に述べたように公開された株式市場でではなく、縁故によって個人資産家によって買い取られていたのですが、企業は、会社設立時に株式を一時に発行せずに、何回かに分けて段階的に発行することが認められていました。資産家は、当初購入する契約をした株式の4分の1を買い取り、残りは、その後何年かに分けて購入します。この方法は、日本が独自に考案したものではなく、欧米での方法を真似たものです。こうして、資産家は、その時の所有資産を越えた株式を取得することが可能となります。そして、その上で、資産家は取得する株を担保として銀行からの融資を受けることができました。

 この二つの方法で、資産家は自己所有資産の何倍にも及ぶ株式を新設企業から取得することが可能でした。さらに、増資される場合には、この時も市場で市価で一般に公募するのではなく、既存株主に額面通りの価格で販売されたので、この時も資産家はその時の所有資本を越えて株式投資することができました。戦後に常に価格上昇を続ける土地を担保に資本を増やし続けるという「花見酒経済」と呼ばれたものがありましたが、これはいわば戦前の企業が拡大し続けることを前提とした戦前型花見酒経済であったと言ってもいいのかもしれません。

 もっとも、1991年までの戦後経済と違って、企業が経営困難に陥り、さらには破綻する確率は20世紀前半には高かったので、そうとまで言えば言い過ぎでしょうが、とにかく、資産家は銀行融資を受けて、今風に言えば、「レバレッジ(梃子)を効かせた」投資ができました。例えば、明治期を代表したビジネスマンの1人である渋沢栄一は、新会社の設立に熱心で、自ら大株主となったことがよく知られていますが、渋沢が第一銀行から借り入れた総額は、122万6,000円(明治期の1円が現在のおよそ4,000円に匹敵するとして換算すると〈比較的穏やかな数値を示す米の価格差を基準とした換算比率による〉、およそ49億円)という多額にのぼると記録されています(島田昌和著『渋沢栄一』〈2011年〉より)。

 企業の自己資本比率が高くて、金融機関に依存するところが少ないといっても、大元の株式の購入資金を得るところで、金融機関融資がおおいに活用されているとすれば、結局は、企業は「間接的に間接金融に頼っている」ということになるとも言えます。こうなってくると、企業の資本調達が、実際にはどれほど直接金融によるものであり、或いは間接金融を必要としていたのかということは、余程広範で詳細にわたる資金循環統計(国中の資金の流れを表すもので、現在は日本銀行が、毎月詳細にわたるデータを提供している)が用意されていなくては、正確に測ることは誠に難しくなります。

 そこで、これほど明確な企業の高い自己資本比率という統計値を目の前にしてなお、当時の日本経済は、直接金融が中心であったのか、或いは間接金融により多くを負ったのかという、単純に見える問いについて、経済学者の意見が分かれることになります。そして、論争は、今なお続いているのですが、基礎となる統計資料が出切った様な状況にある現代でこうであるのですから、今後とも決定的な評価は下ることはないのかもしれません。

 少なくともはっきりしていることは、現代の金融が、〈個人〉→〈預貯金や保険金支払い〉→〈金融機関〉→〈貸付〉→〈企業〉という流れの間接金融を主としているのに対して、20世紀前半までは、近代産業資本の資金獲得方法についても、〈零細個人〉→〈預貯金)→〈金融機関(銀行、郵便局など)〉→〈貸付〉→〈資産家〉→〈株式購入〉→〈企業〉という太い資金の流れがあったということです。このことは、企業の将来を見込む企業業績予測は、一義的には金融機関ではなく資産家個人が行ったのであり、従って、企業破綻のリスクは直接には資産家が負っていたということになります。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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