小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

13. 近代資本主義から遠ざかった明治・昭和


〔4〕終身雇用は官僚だけのためのもの

(1) 明治時代の女性労働者

 日本の近代産業の幕開けは、一方では、造船、製鉄と言った日本固有ではない、輸入された新産業技術によるのですが、しかし、それより早く、しかも量的な比重で言えば、日本産業の近代化は近世から農村部で徐々に発展を続けてきた紡績産業で盛んに行われました。織物産業以上に紡績産業では、近代機械の導入による生産性向上効果が大きかったからです。例えば、女工1人が扱える紡錘の数が最初は1つだったのが、近代機械の導入により10にも増えました。

 幕末期から明治初期にかけの日本の貿易での稼ぎ頭は生糸産業です。当初は生糸産業と並んで有力であった製茶産業は、近世に産業資本が発展しておらず、開国とともに急増した輸出需要に対応して品質管理を怠り粗製乱造を行ったために、直ぐに輸出力を失くして衰退しました。そして、製茶産業が衰えるにつれ、次第に台頭したのが綿紡績産業です。生糸が品質の良さを活かして、専ら輸出に回されたのに対して、生糸のように品質で差別化できない綿糸は、インド製の綿糸などに対して国際市場競争力が弱かったのですが、日本人の所得が向上するにつれて、国内需要が急増したので、それに伴い綿糸紡績業も発展します。

 しかし、不平等条約によって関税が低く抑えられていた貿易により海外製品が国内市場に容易に流入できる状態にあって、綿紡績産業は、徹底した低価格競争を強いられました。紡績機械は、専ら輸入によるのであり、その購入価格を急激に下げることはできないので、コスト引き下げは、専ら人件費の節約によらざるを得ないこととなります。こうして、「女工哀史」の世界が生まれました。

 近世(江戸時代)を通して、農村の経済は緩やかに発展し、家内工業的産業資本の発展もあったのですが、しかし、同時にこれら農村部における産業資本の発展は、農村内部における社会格差を産み出していました。豪農が生まれ、或いは産業資本者が豪邸を構える一方で、貧農も多く発生しました。特に、西南戦争の後発生したインフレを抑えようとして大蔵卿松方正義が引き起こした「松方デフレ」期に、借金を返済できずに土地を手放し小作人化する小農民が増えて、ますます貧富の格差は増大しました。そうして大量にあった貧農の家の未婚の娘が、綿糸紡績産業の労働力を提供することとなりました。

 彼女らは、貧農家の借金返済のための資金を提供された見返りに、紡績工場に年季奉公に出され、紡績工場に隣接して設けられた寮に押し込められることになります。その苛酷な労働環境については、別のところ(ここ)に書いたとおりです。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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