小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

13. 近代資本主義から遠ざかった明治・昭和


〔1〕民業の官営化が進んだ

(13) 官業化されなかった基幹産業での苛烈な労働

 重要な基幹産業でありながら、官業が民営化され、ついに官営化されなかったのが鉱山事業です。

 鉱山業については、明治新政府は幕府から受け継いだ鉱山をすべて民間に払い下げています。そしてこれを得た三井(三池炭鉱)、三菱(高島炭鉱)、古河(足尾銅山)はその事業より巨利を得て、財閥を成長させる最も重要な推進力としました。また、この一方で住友は、近世に南蛮吹きと呼ばれる銅精錬技術を得て、世界最大級の産銅量をもつ別子銅山などを経営していたのですが、それを発展させて財閥形成の重要な基幹事業としています。そして、これらの鉱山業が国営に戻されることは決してありませんでした。

 それでは、政府は鉄道業については国営化してその管理を徹底させる一方で、どうして、それと同程度に重要と思われる鉱山業については民営化の原則を貫いたのでしょうか? 明治期の産業革命を説明した歴史学者や経済学者の説明を得ることはできません。一般にどうしてこれが起こったかという議論はされるのですが、なぜこれが起きなかったかという説明はされないのです。そこで、小塩丙九郎の推量を働かせるしかありません。

 鉱山業を成功裏に運営し、拡大するために最も重要であったのは、資本を投じて、外国から近代技術を導入して、鉱山業務を近代化することではありませんでした。鉱山の掘削作業を機械化する技術は当時のイギリスにもなく、掘削は専ら人力によっていました。イギリス人の指導による蒸気機関を使っての排水は、1868年に高島炭鉱で実現していますが、鉱の掘削自体に機械は導入できていなかったのです。この危険で困難な作業を行う鉱夫をどれほど“効率的に”作業させることができるかこそが、鉱山事業の成否を決めました。そして、その効率化の手段とは、結局のところ、苛烈な労務管理を行うこと以外にはありませんでした。

 例えば、高島炭鉱を政府から払い下げを受けた後藤象二郎から買い取った岩崎弥太郎は、後藤の失敗が労務管理の甘さにあることを見抜き、大学南校(東京帝国大学の前身の一)卒で留学経験もある鉱山技師の長谷川芳之助と南部球吾に炭鉱管理をさせ、納屋頭〈なやがしら〉に抗夫の募集、生活管理、作業管理を一括して請け負わせて厳しく管理する方法を編み出して高い収益率を実現しています。

 工場の作業を親方に請け負わせ、採用・解雇から賃金の決定・支払までの職人の差配を一切親方に任せるというのは、産業革命初期の重工業が現れる前の時期には一般的であった工場経営法ですが、工場に機械が導入されて高度の専門技術が必要とされるようになるに従って少なくなっていきました。しかし、機械化が十分に進まなかった工場では、太平洋戦後期初期にまでその方法が維持され、そして、その中でも、鉱山での労務管理は旧い形のままで徹底されたのです。

 そして、政府官僚は、多くの鉱山で行われていた、今の基準に照らせば非常に非人道的で強圧的な、苛酷極まる半アウトロー的労務管理に直接手を汚したくなかったのだ、というのが小塩丙九郎の推測です。明治政府官僚の始祖たる西南日本雄藩の藩士の多くは、専売産業に深く関わっていました。そして専売産業は、奴隷的労務を専売品の産地で強要していまし。しかし、この苛烈な労働環境を維持することは次第に難しくなっていました。その背景には、労働環境の改善についての大きな国際運動の高まりがあります。

 20世紀初頭より、先進国で労働者保護を訴える社会活動が活発化し、1917年には労働者の反乱によるロシア革命が起こり、ソ連が建国されていました。各国主導者たちは、自国の体制を維持するためにも労働者と融和することが必要だと感じたのです。そして1919年には第一次世界大戦の終戦処理を目的に開かれたパリ講和会議において、国際連盟と並んでその姉妹機関としての国際労働機関の設立が合意され、そしてILO(国際労働機関)が生まれ、それに日本も参加しました。鉱山での苛烈な労務管理は、当然この国際的な運動理念に反するものであり、一等国として認められたい日本政府が、自ら鉱山事業に関わることは憚〈はばか〉れたのです。

 また、紡績所も3か所の綿糸紡績(広島、愛知)とくず繭製糸(新町)を行う官営工場が、何れも失敗して1882年から1887年にかけて民間に払下げられています。そして1893年に世界遺産に登録されて有名になった官営富岡製糸場が三井に払い下げられています。富岡製糸場は、近代的な工場であり、工女の勤務時間は1日8時間の模範的なものであったとされていますが、操業開始以降12年経った1884年より勤務時間は急速に長くなっており、民間企業に払い下げられました1893年にはすでにおおよそ1日の勤務時間は11時間にも達していたのですが、民間企業に払い下げられて後、さらに勤務時間は延長されたことが知られています(下のグラフを参照ください)。


富岡製糸工場の労働時間
出典: 今井幹夫が提出した資料(2006年9月29日法政大学創立者薩?正邦生誕150周年記念連続講演会 『明治日本の産業と社会』における今井幹夫講演『富岡製糸場の歴史と文化』でのもの)に基づき筆者が作成。

 このことは、女工の苛烈な労働管理によって初めて紡績業が採算的に経営できたことを示しています。国際市場の主な競争相手が日本よりさらに賃金水準の低いインドであったので、工場の機械化技術がそれほど高度なものではない紡績産業では、労働コストを上げては日本の主力輸出産業を経営できなかったのです。

 民営の紡績所で働く女工たちは、貧農家の借金返済のための資金を提供された見返りに、紡績工場に年季奉公に出され、紡績工場に隣接して設けられた寮に押し込められることになります。許可を得ない外出は許されず、夜間は逃亡を恐れる工場主によって寮の扉を外から施錠されました。朝の4時に起床すると20分後には紡績機械の前に立ち、10分間の朝食と、30分間の昼食時間を含めて夕方6時半まで働き続けます。1日およそ14時間の労働です。


 しかも、繁忙期には18時間まで延長されたというのですが、その作業シフトがどうやれば実現できるのか想像もできないほどです。その間、工場内での女工同士の私語は許されません。そのような日が続き、休日は月1回しかありませんでした(なお伝統的男子職人については、「七字出五時引」の伝統に従い、朝7時就業、夕方5時終業、うち食事休憩時間2時間半。休日は年50日)。これで、身体〈からだ〉をこわさないわけはありません。

 余りの労働環境のひどさに、政府は経営者たちとの激しい論争を乗り越えて遂に雇用条件を規制する工場法を制定(1911年)するのですが、その必要性を説明した農商務省の官僚(工務局長長岡実)は、「此帰郷女工の状態を調べたところに依ると 新潟県に於ては半分は一年内に死亡する 即ち郷里へ帰った女工が例へば千人あったとしたならば其中の五百人は一年内に死亡する者であるか若くは病人である・・・・而して此半分の中で更に其半分即ち四分の一は結核性疾患に催って居ると云ふ統計を得ておる・・・・・」というような言葉にもならないほどの状況を報告しています(東条由彦著『工場法の法理』〈高村直助編『日露戦後の日本経済』《1988年》収蔵〉より)。これが、日本の経済の底を支えた繊維産業の労働実態です。勿論、終身雇用ではなく、年功賃金でもありません。年季明けに、実家に戻って病に倒れるか、運がよければ、嫁にいけるというほどのことでした。

 日本は、ILOに加盟しましたが、しかしそれによって鉱山や紡績所での労働環境が急速に改善されたわけではありません。このような近代化が進まない産業に、政府官僚が直接関わることは、国際政治環境も許さなかったのだと思います。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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