小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

13. 近代資本主義から遠ざかった明治・昭和


〔1〕民業の官営化が進んだ

(12) 民営事業者の意欲が否定され続けた通信産業

 これまで説明したように、近代産業国家の最も基礎的なインフラとなる製鉄産業、造船産業、電力産業、そして鉄道事業について、明治初期の一瞬の例外(民営釜石製鉄所と鉄道国有法前の私設鉄道)を除いて、或いは官営企業が発展し続け、或いは国家統制が強化され続けてきました。その他に重要な産業インフラとしての情報産業も、例外ではありませんでした。

 まず郵便事業が、明治新政府ができた翌年の1869年に電信事業が官営で始められました。日本人やフランス人が民営事業申請をしたりして官僚の判断が揺れこともあったようですが、1874年に日本帝国通信条例が制定され、電信事業を官営として行うことが最終的に定まりました。この時期、アメリカとイギリスを除いてどの国でも電信事業は官営としていましたので、日本だけが突出していたわけではありません。民営を許して外国資本になってしまうことを危惧する声も強かったようです。

 1925年に民営の日本電線電信鰍ノよる事業が認められましたが、これは国際通信での周波数の取り合いに官営だけでは非力で勝てないためであったためで、国内通信についてではなく国際通信のみ民営化されたのであって、国内電信は結局か官営が独占したままに終わりました。

 一方、明治維新から4年目の1871年に郵便事業が、当然のことのようにして大蔵民部省駅逓司〈えきていし〉により官営で始められました。1876年に、つまり明治に入って9年目に、アメリカのグラハム・ベルが発明した電話機は、翌1877年には日本に輸入され、官庁や警察或いは鉄道、鉱山の専用電話の形で普及しましたが、一般電話については、それから11年後の1889年にようやく東京と横浜で開始されました。官営にするか民営にするかの議論が直ちに決着しなかったからです。1985年には渋沢栄一などが電話会社設立の願いを出していたのですが、結局官営とされました。

 発明国であるアメリカの例に従わなかったのは、結局のところ「官僚の事業拡張意欲にあり、後には電信事業以上の有力財源としての電話事業の性格にあった」と歴史経済学者の石井寛治は書いています(『日本の産業革命』〈1997年〉による)。つまり逓信省官僚は、郵便、鉄道、電信などあらゆる所掌事業について自分たち自身が独占して経営するものとしたかったということです。

 そして、官営化された電話事業の普及は必ずしもはかばかしくなく、殺到する設置要求に応じきれずに町の“電話市価”の高騰を招いたというのです。設置を申し込んでもすぐには開通してもらえないという状況は、さらに拡大し、1912年には都市部だけでも11万もの未開通がありました。既に開通済みの電話の数はおよそ20万でしたから、その停滞状況の深刻さが察せられます。

 さらに、開通しても電話がつながるのには時間がかかり、電話開業から40年も経った1929年でも、東京―大阪間では53分、東京―静岡間では4時間を要したという記録もあるとのことです(以上、NTT東日本HPによる)。それでも逓信省官僚は、民間事業者の参入を認めず、事業独占を維持しました。

 1929年にも、昭和金融恐慌の最中に民営化論が出され、日本電信電話鰍フ設立の一歩手前まではこぎつけたのですが、結局のところ閣議で否決されて実現しませんでした。ただ電信事業と同様に、国際電話事業については1932年に民営の国際電話鰍ェ設立されています。しかし、1938年には、国際電話鰍ニ日本無線電信鰍ヘ、合併させられ国際電気通信鰍ニいう国策会社とされています。


 日本の情報産業については、民間資本参入の意欲が何度も寄せられたのですが、結局は国際通信に限って参入が認められたものの、最後には国策会社として完全に官僚管理とされています。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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