小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

13. 近代資本主義から遠ざかった明治・昭和


〔4〕終身雇用は官僚だけのためのもの

(2) 明治時代の男性労働者

 では、都市部で急増した男子工場労働者は、どのようであったのでしょうか? 機械産業や重化学産業が発展するにつれて、農村部から都市部への若年男子の移動が起り、彼らが工場労働力の提供者となり、職工と呼ばれるようになります。都市部で働くこととなった女性の多くは、女中となったのです。今では差別用語となった女中であるが、当時は、下女という近世での差別表現を改めた近代用語でした。(女中の労働については、内田星美著『技術移転』〈岩波書店『日本経済史4−産業化の時代(上)』蔵〉に詳しくかかれています)。

 職工たちは、直接工場に雇われていたわけではなく、産業革命期のアメリカでそうであったのと同様に、工場から委託を受けた親方の指示に従い工場に行き、そして働きました。職場の配置や報酬は親方の采配で決定されました。職人たちの工場に対する帰属意識はまったくなく、年間平均移動率はアメリカ同様におよそ100パーセントに近いものでした。つまり、平均して1年で勤め先の工場を変わりました。20世紀初頭の1902年から1913年までの間に、機械工場では、勤続年数1年未満である者の割合が3割から4分の1へと僅かに減っていますが、同一工場に5年間以上勤務する者の割合は、2割と全く変化していません(下のグラフを参照ください)。この間に、日露戦争という繁忙な戦時体制の時期があったのですが、職工の雇用条件には変化はありませんでした。

機械工のッ勤続年数
出典: 沢井実著『機械工場』(岩波書店『日本経済史4-産業化の時代―上』〈1990年〉蔵)掲載データを基に作成。

 職工は、勿論、終身雇用されておらず、年功賃金制の下にもないので、より高度の技能を会得して自分を高く売れると思えば、親方の指示に従って、より高い賃金を出してくれる別の工場、つまり別の企業、に移ったのです。この頃、工場を変わらない職工は、無能とされたものです。労働者に必要な技能は、先ずは親方から伝授され、さらに勤務先の工場でOJTにより学びました。生活、勤務の全面にわたって、職工は親方にほぼ完全な依存状態にありました。

 こうした、一家の体裁を整えた親方は、工場経営者に対して強い態度で臨み、近代的工場にあって高度の技術を誇る大学卒の技術者は職工の扱い方を知らないので、親方の意見に逆らった労働環境整備を行うことはできませんでした。工場経営者が、工場の運営について、親方たちに「丸投げしていた」と言っても、実態とはそれほど違いません。職工は、こういう関係の中で、近世とほとんど変わらない親方との徒弟関係にありました。しかし、これは日本の産業の後進性を表すものではありません。イギリスでもアメリカでも、産業革命の初期は、これと同じ状況であったからです。

 ただ、アメリカの親方たちがより近代的であったのは、親方たちが組合をつくり、技術学校を自前で持ち、その連帯を強めて業種毎の職工組織に高めていったという点にあります。それが、現代のアメリカのユニオン(業種別労働組合)に直接繋がっています。しかし、そのような仕組みになかった日本の職工たちは、アメリカの職工たちほどうまく労働組合を育てていくことはできませんでした。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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