小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

13. 近代資本主義から遠ざかった明治・昭和


〔4〕終身雇用は官僚だけのためのもの

(3) 雇用の二層構造が生まれた

 このように、親方たちは、強い交渉権限を工場経営者に対して持っていたのですが、より高度の技術が要求される重化学・機械工業では、その立場は次第に弱くなっていきました。大卒や高工卒の技術者でなければ、工場での生産技術を理解できなくなり、親方が自分の弟子である職工に必要な技能を伝授することができなくなったからです。工場は、工場毎に固有の生産技術を、親方を介せず直接に職工にOJTで教え込むようになります。こうなると、親方たちは、口入れ稼業だけしかできなくなります。うまく立ち回る者は、自らは職工として働かず、専ら労働管理者となります。しかし、そのようでは、次第に弱くなる権限を保つことはやがてできなくなりました。

 1914年に、オーストリア・ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世がボスニア系セルビア人にサラエボで暗殺されることに端を発し、ヨーロッパ中を戦場にして第一次世界大戦が戦われます。この余波は、日本には工業製品の大幅な需要増という形で現れました。戦時にあるヨーロッパからの輸入が途絶えたからです。その上に、中国大陸でドイツを敵とした日本独自の戦いもありました。日本中が戦争景気に沸くのですが、これが工場職工の猛烈な奪い合いを呼びました。終身雇用されていない、工場に居つく習慣のない職工を繋ぎとめるには、それまでよりはるかに良い労働条件を職工に提示するしかありません。こうした労働者売り手市場の中で、高賃金の他、終身雇用と年功賃金を保証するという工場が現れ、増えていきました。日本で初めて、工場労働者に終身雇用制が提供されたのです。

 これまでにも、同じような好条件を獲得していた労働者がいないわけではありません。中央政府及び地方政府の役人たちです。幕藩体制での武家の制度を引き継ぐこれらの者たちは、近世の大名と武士の間にあった終身雇用という雇用形態を引き継ぎ、石高制を真似て一代限りの年功賃金制としていました。そしてこの制度は、文官のみならず技官にも適用されていました。言わば、それが職工にまで拡大されたということです。

 財閥企業にあっては、大学出の者が「社員」となっていました。当時は、社員とは、会社の株主と役員などの幹部に昇進することが多い中核的なサラリーマンのことを言います。ですから株主以外の社員は、いわば、近世の丁稚→支配人に相当しています。これらの者は、職工のように頻繁に職場を移動するということはなく、勤続年数は一般に長いものでした。しかし、丁稚→支配人の伝統をひいているということは、今のような終身雇用の保証があるということではなく、社員相互間の熾烈な出世・生き残り競争の下にあるのであり、成績がよければ出世するし、賃金も向上し、多くのボーナスや豪華な社宅を得ることもできるのですが、しかし、成績が良くなければ、解雇されることもあったのです。勿論、企業の業績が向上し続けている間は、そのような心配は無用です。しかし、終身雇用と年功賃金が約束されているという状況にはありませでした。

 第一次世界大戦中の景気を経過して、職工は終身雇用と年功賃金制を獲得するのですが、しかし、その後それが容易に定着するわけにはいきませんでした。どの戦争でも決まってそうであるように、戦争が終わってしまうと猛烈な不景気が襲ってくるからです。工場経営者の中には、一旦定めた終身雇用と年功賃金の約束を反故〈ほご〉にする者も出てくるような状況で、終身雇用と年功賃金制が普及していくというわけには到底いかなくなりました。多くの工場経営者は、「家族主義」とか「温情主義」という言葉を持ち出して、例えば労働者福祉制度を若干充実するなどして体裁を整えつつ、職工たちには、親につき従うように工場経営者の指示に従って猛烈に働けと叱咤〈しった〉したのです。

 そして、第一次世界大戦後の不況時に、一旦長期雇用した職工の頸〈くび〉を簡単には切れないということを学んだ経営者たちは、不況時の経営者の職を求める大勢の労働者たちに対する優越的な地位を利用して、終身雇用が約束された常用工とは別に臨時工を雇い、景気が悪くなったときの調整弁としました。1920年代の職工の長期雇用は、一方で多くの人員整理を行った上で、残した職工と新規雇用者を終身雇用の対象とするという労働者を、今の言葉で言えば、正規と非正規の労働者に区分して管理しようとしたことの一方の施策が正規雇用職工の終身雇用化であったという点については、注意を払っておく必要があります。

 この当時から、日本の企業は雇用の二重構造をとっていたわけで、これは非正規雇用者を多用する現代の企業と行動様式がまったく同じです。1990年代以降の製造業での非正規雇用者を多用する政策は、いわば時計の針を1920年まで70年間戻したようなものであると言っていいと思います。これで、1990年代に行われた雇用の自由化政策というのが、新しい時代のニーズに柔軟に対応できるようにしたというようなものではなく、半世紀以上も前の企業の都合を優先した非民主主義的な政策と同類のものであることがよくわかります。そして国民労働者全部を同様に正当に雇用して、それらすべての水準向上を図るという困難な仕事を回避したことのツケは、結局のところ大きく企業や国全体に後ほど降りかかってくることも同じです。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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