小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

14. 日本の第2の大経済破綻


〔2〕技術者教育は軽視され続けた

(7) 技術開発が加速することに気付かなかった

 欧米に開国を強いられた時、日本と欧米先進国との技術差は大きく開いていました。しかし、それでも、懸命に頑張りさえすれば、後発国優位の原理(ガーシェンクロン・モデル)を活かせば、追いつけるほどの彼我の差でした。その例は、日露戦争に臨んで下瀬火薬、伊集院信管、三六式無線機という日本海軍が開発に成功して当時の世界水準に届く日本独自の軍事技術を開発して例で示されています(詳しい説明はここ)。しかし、問題は、その直後に発生していたのです。

 近代科学技術の発展が一旦始まると、その速さは一定でなく、一つの発明が別の発明を産むというように、その発展は加速されます。そしてそれを促し実現させる仕組みが、イギリスが始め、アメリカでおおいに発展させられた近代資本主義体制です。例えば、電信から始まる通信の仕組みが、アメリカでは半世紀の後に戦闘情報システム(CIC: Combat Information Center)にまで発展していたということを紹介しました(ここ)。1830年代に有線電信が発明され、1890年代に無線電信となるまで半世紀以上を要したのですが、それが、高度の総合情報システムに進化するまでには半世紀を費やしてはいません。そして、第2次大戦中のイギリスは、電子コンピュータ(コロッサス: 暗号解読専用機)を発明するまでに至っています。

 しかし、このことに気がつかなかった文官優位の日本政府は、技術者養成と科学技術研究に国の全力を注ぐことはありませんでした。そして、陸海軍官僚たちは、歩兵の数や艦船総トン数などで表される量の競争を第1として、兵器技術の質を上げることを第2としたのです。

 「1885年の専売特許条例施行以来、明治末までに約2万3,000件の特許と2万6,000件の実用新案が登録されたのであって、その大部分は在来産業(繊維産業技術や醸造技術に関するものなど)に関するもので、発明者の大多数は大学や高工で西欧技術の正規の教育を受けた技術者ではなく、各地の職人や中小商工業者といった草の根的発明家であった」(内田星美著『技術移転』〈岩波書店『日本経済史4−産業化の時代(上)』収蔵〉による)のです。

 つまり、日本伝統の技術を発展させることはできましたが、近代的技術の独自開発は、ほとんどされませんでした。この結果、20世紀前半期に、輸出は専ら製糸・織物産業に頼り、近代的兵器開発に大きく後れをとるという結果を招いたのです。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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