小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

20. 大経済破綻後の復興


〔2〕大経済破綻後の復興策の考え方

(10) 日本型近代資本主義国家のつくり方(後編)

 アメリカやイギリスの近代資本主義は、キリスト新教、プロテスタンティズム、にその根源的な規範をもっています。そこで営利と慈善を同時に並列させることにより、市場の自由を確保して経済成長を可能とするとともに、強者が一方的に勝ち続けることのないような慈善の精神に基づく所得の再配分と同胞意識の涵養を図っています。もちろんそれは、フリードマンが批判するように不完全なものではありますが、しかしそれでも十分に参考するに値するものです(アメリカの現在の制度が不完全であることは、別の章〈ここ〉で詳しく説明しているとおりです。またその解決方策についても、小塩丙九郎なりの提案もしています〈ここ〉)。

 ここで再確認しておきたいことは、近代資本主義とどの国でも中世の頃よりある資本主義とは根源的に違う種類のものであって、日本の現行の経済構造は古い資本主義の範疇に入るものであり、かつ社会主義に非常に近いところにある計画経済体制であるということです(その詳しい説明はここ)。ですから、日本の第3の大経済破綻後の復興は古い資本主義体制、あるいは計画経済体制から抜け出て、近代資本主義体制に移行することでなければならない、と言うのが小塩丙九郎の考えですす。

 その社会・経済構造の基本のあり方については上に示した通りですが、難しいのは、自由の追求を社会全体として受け容れることのできるような日本国民としての同胞意識の涵養〈かんよう;育てること〉です。この同胞意識は、制度的に定められた税を払えば国民としての義務を全うしたことになると考えるのではなく、自らの自由な意思に基づいて、身の回りにいる困窮者について同情する心をもち、できる限りにおいて経済的、あるいは物理的支援を提供すると言う覚悟を常に持つということです。そのような同胞意識を強くもつことによって初めて自由であることが正当化されるのだ、と言うことを知らなければならない、と小塩丙九郎は考えています。

 江戸時代に、例えば飢饉など大きな困難が人民を襲った時に、時の政権を担った幕府や諸藩の官僚たちが、まことにまれな例外を除いて、まったく無関心であり、あるいは物価高騰をチャンスととらえて利を貪〈むさぼ〉ろうとする多くの大規模なものを含む資本を制止せず、むしろ同調しようとしたのに対して、高い経済倫理をもった民間大資本が懸命に困窮する人民を救済しようと奮闘した実績を日本はもっていることは、既に明らかにした通りです(詳しい説明はここ)。

 そのような高い経済倫理の基礎を提供した宗教がすこぶる弱々しくなってしまった現代にあっては、それに代わる新たな精神規範を日本人は自ら獲得しなければなりません(その説明はここ)。現代のまことに限らた経営者の中には、キリスト新教、キリスト旧教、禅宗などの既存の宗教にその支えを求める者もいることは別のところ(ここ)で紹介したとおりですが、高い経済倫理の基礎を既存の宗教のみに求めようとすることは現代的な姿勢であるとも思えません。

 戦国時代に、北陸地方の人民が当時の権力者であった守護や地頭を追い出して自治の政権を打ち立てたことは別のところ(ここ)で紹介したとおりです。その時それらの人々が精神規範としたのは浄土真宗であったのですが、しかし当時の真宗の最高指導者である蓮如〈れんにょ〉は、布教の便宜を優先して考えて、人民の革命を諌〈いさ〉め続けました。そして一揆による反乱が成功した後に、それを追認しているのです。人民は、宗教家より自分たちの精神により忠実であり、現実的でもあります。小塩丙九郎が宗教の復活と言うことを第一と考えないのは、そのような人民自身による懸命な未来を模索する姿勢を尊いと思うからです。

 一向一揆自体は、加賀国と大阪石山本願寺の敗退で収束し、以降は蓮如の教えにあるように王法、つまり権力者による支配の秩序、と仏法、つまり本来反権力的な信仰の規範、を両立させることとされました。蓮如の言葉によれば、「王法は額にあてよ、仏法は内心に深く蓄〈たくわえ〉よ」(弟子たちが書き残した『蓮如上人御一代聞書』より)と言い、表面上は支配者に従い、本心では阿弥陀仏のみを信じよということです。つまり、面従腹背〈めんじゅうふくはい〉です。それを人民は一旦は克服して政権を奪取し、革命が1世紀で覆されると、以降の浄土真宗は、人民の政権への恭順を再び求めました。ここで、市民革命を成し遂げることに繋がったキリスト新教、プロテスタンティズム、と浄土真宗が別の道を辿ることになったわけです。

 ですから、啓蒙された若い皆さん自身は、既存の宗教や精神規範に拘ることなく、自ら新たな創意をする必要があるでしょう。それには時間がかかりますので、日本の第3の大経済破綻後の復興策の検討には、できるだけ早くとりかかることが望ましいのです。「寄り添う」と言う言葉が近年盛んに聞かれれますが、本当の意味で様々に困窮する人々を救済するには、自分自身がどういう精神規範をもっていればいいのかと言うことを、真剣に考えて、それぞれに心の形をつくっていかなければならないと思います。

 そしてその精神規範を現実に発揮できる社会・経済構造を同時に考えなくてはならないのです。経済問題は、経済学者が語る経済学の領域内だけでは決して解決できるものではない、ということを理解してほしいと思います。

 自由と同胞意識、或いは営利と慈善、これらを常に同時に並列させることを考え、かつそれらを単に理念として構想するのではなく、具体の経済・社会構造改革や施策体系と一体として構想・計画することが必要です。評論家や識者のようにただ願うのではなく、自らが実践家とならねばなりません。そういう意味では、より高い可能性をもった人は、すでに現場で実践的な仕事をこなしているビジネスマンや研究・技術者、或いは工場労働者などであるのではないか、と小塩丙九郎は考えています。

 終身雇用制を棄てることについては、恐怖感があろうかとは思いますが、終身雇用制を大事とする社会は常に破綻に向かう方向性しかもたないということを理解すれば、当面の恐怖感に打ち勝つ心をもつことがいかに大切かは知れるのではないかと思います。そして定年に至るには随分と時間がある若い皆さんは、より容易に必要な勇気をもてるのではないか、と小塩丙九郎は考えるのです。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
©一部転載の時は、「『小塩丙九郎の歴史・経済データバンク』より転載」と記載ください。