小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

19. 日本の経済倫理の発展と挫折


〔2〕これからの経済倫理を求めて

(4) 近代日本の経営者の経済倫理

 近代に入ってからの日本の経済倫理については、見るべきものは多くありません。大企業の多くが、政府官僚の強力な管理を受けるようになり、自由な活動ができなくなったからです。しかしその中でも精彩を放った人は、います。その1番の代表者は、椛q敷紡績(クラボウ)を率いて中国地方の財界で大活躍して、中国合同銀行(中国銀行の前身)や中国水力電気会社(中国電力鰍フ前身)を設立して、財閥にまで育て上げた大原孫三郎(1880-1943年)です。孫三郎は、『女工哀史』が描くような苛酷な女子労働状況にあった20世紀初頭にあって、工場労働者の環境改善に努めました。


大原孫三郎
〔画像出典:Wikipedia File:Magosaburo Ohara.jpg 〕

 孫三郎は、「労働者のための福祉政策は単に労働者の利益を伸ばすばかりではなく、雇主自らの利益をも増大するものであると確信」していました(兼田麗子著『大原孫三郎―善意と戦略の経営者』〈2012年〉より)。この経営者と労働者の利益を一貫させるという考え方は、16世紀から17世紀にかけてイギリスのブルジョワが得た考えとよく似ていますが、孫三郎もクリスチャンであり、キリスト新教、プロテスタンティズム、の影響を強く受けていました。ただ、彼はキリスト教だけを信仰していたのかといえばそうでなく、神道、仏教、儒教(父の孝四郎が儒家の出身でした)、二宮尊徳の報国思想という日本古来の宗教・思想も合わせてもっていました。

 ヨーロッパの人々から見れば、誠に奇妙なことであることには違いないのですが、この複数の教義を互いの矛盾を感じることなく一個の身体の中に納めこむというのは、日本人の特徴であると言っていいのでしょう。しかし、考えてみれば、それは古代のケルト人でも同様であったのであり、一つの宗教の教義にのみに拘る原理主義を採るということの方が、世界中で少数派であるのかもしれません。

 孫三郎が活躍した同時代人に、渋沢栄一(1840-1931年)と武藤山路(むとうさんじ;1867-1934)の2人がいます。そのうち特に渋沢栄一は、多くの日本人に知られ、「日本資本主義の父」とも讃えられています。そして、武藤は、“温情主義”による経営を行ったとして知られています。しかし、これらの者は、孫三郎とは違って、イギリスのブルジョワたちと共有する精神はもってはいませんでした。

 渋沢は、孫三郎と似て、武蔵国(現在の埼玉県)の富農の子に生まれて、尊皇攘夷を唱えた後に一橋慶喜(後の徳川慶喜)に仕えた後、大隈重信に呼ばれて大蔵省に出仕した後、実業家になるという振れ幅の大きな人生を送っています。道徳経済合一を唱えたというのですが、「公」という点に重きを置き、労働者のあり様にまでは関心は至っていません。例えば、生涯長きにわたって養育院の経営に関わり続けたのですが、その興味の持ち方は、「(貧民は、)貧民の身分に相応せる待遇を以て甘んじ」るべきであり、「養育院に収容せらるる老廃者は、申さば東京市人口のボロである。(中略)ボロが出れば之を拾って歩く『ボロ』拾いというものが無ければならぬ」といった具合でした(兼田麗子著『渋沢栄一−善意と戦略の経営者』〈2012年〉より)。

 渋沢の思想の根源には儒学があり、“惻隠の情〈そくいんのじょう〉”に基づく“治国平天下”の倫理をもったと言います(姜克實著『近代日本の社会事業思想』〈2011年〉より)。“惻隠の情”とは孟子(紀元前372?-289年)が使った言葉で、弱者を憐れむ心のことで、“治国平天下”とは社会の支配者が安寧な社会を運営するということを意味します。人民が平等だという考えをとらず、路頭に貧困者や浮浪少年がいれば先進国として恥であるし、社会環境の悪化を防止するには、不良な者を隔離して置くのがいいという考えで、慈善という言葉の範疇に収まる思想とは言い難いものです。

 武藤は、鰹燒aを形成し日本の紡績王と呼ばれましたが、経営に当たって“温情主義”を採ったことで有名です。これは、企業経営を円滑にするためには、苛酷な労働環境を与える一方では却って不効率なのであり、労働者に親心をもって当たるべしと主張したのですが、「貧乏人の方が気楽である」といったような調子であり、経営者に自制を求める一方で、労働者に賃上げ要求するなど利己主義に陥らないように自省を求めたのです。この底には、古来の日本宗教やキリスト教をひと括りにして否定して、近代西洋思想の科学や功利的思想の部分を採り入れようと努めた福沢諭吉の思想の影響があったと推察されます(武藤は、福沢が創設した慶応義塾を卒業しています)。  

 以上のように、渋沢や武藤は、貧民や労働者に“同胞”を感じてはいません。つまり、明治維新以降、日本に現れた、同時代の英米のブルジョワと精神を、一部ではあったとはいえ、共有した日本のブルジョワは、大原孫三郎ひとりでした。孫三郎は、英米のブルジョワに似た経営を行ったと同時に、病院(現在の倉敷中央病院)、美術館(倉敷の大原美術館)、孤児院(現在の石井記念愛染園;孫三郎は石井十次よりキリスト教を教わりました)、社会問題研究所(現在の法政大学大原社会問題研究所)などを建設し、運営するなどの慈善に努めています。

2017年1月4日初アップ 2017年1月15日最新更新(加筆修正)
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