小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

19. 日本の経済倫理の発展と挫折


〔2〕これからの経済倫理を求めて

(3) 明治維新で失われた経済倫理

 明治維新になり、産業近代化が進むとともに、大型蒸気船が進出して、さらに鉄道幹線が全国に伸びて、北前船航路は急速に消滅しました。そしてその航路に依存していた廻船問屋の多くは衰亡し、或いは破産したのです。その中に、先に例に挙げた内田家(ここ)も含まれています。

 明治維新によって日本が近代に入った途端、浄土真宗のみならず仏教は激しく弾圧されます。明治新政府の官僚たちは、国家統一の原理を国民すべてが天皇を奉ずることに見出します。幕末期には、倒幕派の志士の中には大きな存在であった天皇も、知識層に属さない国民の間には天皇についての意識も、或いはそもそも知識すらもほとんどありませんでした。その天皇を国民統一の象徴にしようと言うのですから、アマテラスオオミカミ(天照大神)の末裔である天皇を権威づけるために神道を国家管理のものとしようとしました。そのためには、既存の宗教である仏教や、地方の伝統的な神道が邪魔になったのです。

 神仏習合の観念(その説明はここ)が廃止され、多くの寺院や仏像が破壊されました(廃仏毀釈〈はいぶつきしゃく〉と言います)。中でも近世江戸時代にもずっと浄土真宗を禁じてきた薩摩藩においては、もっとも徹底した廃仏毀釈が行われ、1,616の寺院が破壊され、2,966人の僧侶が還俗〈かんぞく;俗人に戻ること〉を強いられました。イングランででは、近代民主主義産業国家を産むこととなったキリスト新教、プロテスタンティズム、ですが、日本の浄土真宗は、16世紀末には加賀国一向一揆のせん滅と大阪石山本願寺からの退城、そして19世紀末に廃仏毀釈運動の中での寺院破壊という2度にわたる大弾圧をうけたわけで、18世紀に発展の兆しを見せた真宗教義に基づく商業資本も、イングランドのような近代資本主義体制の構築と言う段階にまで至ることはありませんでした。

 そしてまた、京と大坂を中心に栄えた石門心学も、明治時代に入って急速に消滅しました。石門心学講舎は、地域の子弟に教育を施す江戸時代の、現在の用語で言えば、教育産業であったのですが、倒された幕藩体制に親和性が強いものは新政府からうとまれましたし、ましてや初等教育が学校の急速な建設によって進む中では、政府から邪魔者扱いされるものでした。政権との衝突を好まない商家も、急速に石門心学から離れていき、日ならずして石門心学は日本社会から姿を消しました。こうして、日本海地域、近江地域、京・大坂を中心としてあった日本の伝統的経済倫理は、近代日本からほぼ消えてなくなったのです。

 明治の近代化を思想面で引っ張った1番の立役者が福沢諭吉であることについては大方の同意が得られるところかと思います。そして福沢もまた、強烈に宗教が無用な時代遅れなものであると主張しています。

 例えば、「神儒仏の教えやキリスト教などにしても、いずれも大昔の野蛮時代に、いわば片輪者〔原文ママ〕の人類相手に唱え出した説だから、その時代としては、確かに必要だったに違いない。しかしながら、文明の性格は、社会の複雑化に伴って進歩するものだから、いつまでも大昔の単純素朴な状態に安んずべきではない。私徳の修養だけで人生の能事終れりとすべきでないことも明らかではないか。私徳を無用視はしないけれども、それを修める以外に、さらに大切な公智・公徳の働きが必要だ、といいたい」と、口調を強めながら論じています(福沢諭吉著『文明論之概略』(伊藤正雄の現代語訳〈2010年〉、原典〈1875年〉)。つまり、宗教は低俗で個人的なもの(私智・私徳)で人を惑わすだけのものだから、それより公共の役に立つ智恵を学ばなければならないというのです。。

 福沢は、九州中津藩の下級武士の長男として生まれたのですが、「歴代の重心や大身の武士に接すると、常に鼻であしらわれて、子ども心に不平でたまらなかった。だが、この不平実感は、身分の低いわれわれ軽輩仲間でなければ分からなかった。(一方、)身分以下の百姓町人には、必ず不愉快を与えたことがあるに違いない。しかしそれは私には分からない」と、町人との感情の共有ができてはいなかったことを素直に認めています。しかし、彼は中津藩の郷土でではなく、大坂屋敷で直接商人と交渉する役にあった父の下で育てられたのであり、その意識さえあれば、町人と交わることも難しくはない立場にありました。町人を理解できないと告白するその率直さには敬意を表しますが、しかしなお徹底して人民との価値観の共有を求めなかったことについては、自ら開明家を名乗る以上、責められるべきでしょう。やはり、福沢は観念論を重んじる思想家で、現実の経済構造を理解するに至っているとは思えません。

 明治維新は、イギリス(イングランド)のような絶対王制に対するブルジョアジーの反抗によってなったものでもなければ、或いはアメリカ独立のように国民が集合して宗主国に反乱することによってなったものでもありません。いわば、旧体制の一部であった西南日本雄藩の若手武士のクーデターのようなものでした。農民らが加わるという長州騎兵隊のような例外はありましたが、それもそれらの者が武士階級に取り立てられるという夢をもったためのものであって、既存体制を打ち破ろうとするものではありませんでした。

 福沢自身も武家の出自(中津藩下級武士の次男、大坂生まれ。父親は、商人に対して厳しく向き合うことを余儀なくされる藩の借財を扱う職にありました)であり、武士以外の者に具体的な共感を強くもてなかったことは、先に示した通りです。『学問のすすめ』は、明治憲法ができるはるか20年近くも前に書かれたものであるにかかわらず、著書全体を通じて国法遵守の精神と国への反抗の諌〈いさ〉めが殊更〈ことさら〉に強調されています。

 政治思想家の丸山真男は、日本の思想は対決と蓄積の上に歴史的に構造化されないことが伝統になっており、背後から様々なものがズルズルべったりに無関連に潜入してくることが常にあり、文芸についてはともかく、思想に関しては雑種性を悪い意味で肯定した東西文化融合論は「もう沢山だ」と言っています(丸山真男著『日本の思想』〈1961年〉より)。

 丸山が見る日本の思想史は、神道、仏教、儒教が常に融合し、或いは反発しつつ、一時として統一的な思想構造をもつことがなく、時には神道、仏教、儒教の三位一体までもが言われ(例えば中世の明恵上人や近世の石田梅岩)、あるいは明治初期には「神道は宗教ではない」と政府が主張した一方で、大戦前夜(1935年)には、天皇が天照大神より万世一系の下にあって、日本が天皇統治の国であると声明するといった具合であった様〈さま〉を言っているのだと理解されます。明治期以降には、国内或いは中国からもたらされた思想のみならず、欧米からもたらされた様々な“近代思想”や“科学的理解”を、古代以降中世までの“日本風”の思想の上に混ぜ合わせていくということが、あちこちで行われました。そして、その典型の1人が福沢であったと言えると思います。

 つまり、近代的観念を言いつつ、思想の骨となるもの、基本、がないのです。だから時代環境が少し変わると、それまでの日本が常にそうであったように、世を動かす主張の主流がとんでもなく大きくぶれることとなります。明治維新期に急に神道が躍り出てきたように、太平洋戦争が終わると途端に国籍不明の(宗教などの国民的基本理念の背景をもたない)民主主義論が出てきます。自ら発案したものでもない日本国憲法が不可侵のものであると主張する者がいる一方で、近代的立憲主義や民主主権を頭から否定するような改憲論が力をもってきます。

 人民の自由についての基礎となる基本思想がないので、双方がどう議論しても、論争にはなりません。そうした中で、近代資本主義国家を構築するためにもっとも基本的な力となるはずの経済倫理は、江戸時代までは、1つには北陸地方から近江地方にかけてのもの(浄土真宗の教義に基づくもの)、そして2つには京、大坂を中心のもの(石門心学の理念に基づくもの)があったのですが、それらは何れも明治時代に入った途端にとても弱々しいものとなり、近代社会経済体制を構築することには、何れも貢献することはありませんでした。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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