小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

19. 日本の経済倫理の発展と挫折


〔2〕これからの経済倫理を求めて

(2) 石門心学と商人たちの経済倫理

 京の郊外にある農村から京の商家に丁稚奉公に出た石田梅岩(いしだばいがん;1685-1744年)は、奉公先が倒産して一旦実家に戻るのですが、再び京に出て商家に奉公します。しかし、歳が嵩んでからの勤め替えでは出世の見込みはなく、儒学を初めとして多様な学問に励んで、生き方についての哲学理念を得て独立し、一門を成しました。

 「武士道、真宗および(二宮尊徳の;小塩註)報徳運動が、すべて恩を第一に強調し、宗教行為の第一の型の例となっているのに対して、心学は、神あるいは『存在の根拠』と合一することを第一に強調している。明らかに孟子が、極東における『倫理的神秘主義』の長い伝統の源泉であり、心学がまさにその伝統に属している。中国におけるこの宗教伝統は、ほとんど、文字の分かる、地方紳士出身官僚階級の専有物であった。その階級内でさえも、ごく少範囲の知識人によるほか、その宗教伝統は、おそらく、真面目には修められなかった。しかし、日本における心学は、この宗教伝統を、商人階級の必要に適応させ、そこで広く流布した。これに比し得る発展は中国にはなかった」、とアメリカの宗教社会学者のロバート・N・ベラーは、その著『日本近代化と宗教倫理−日本近世宗教論』(原著“Tokugawa Religion: the Value of Pre-industrial Japan”1957年)に書いています。

 難しい表現で恐縮ですが、梅岩は江戸時代中期に、知識階級に属さない庶民である商人に心の哲学を初めて持ち込もうとしたと言っているのです。この試みを行ったことによって、梅岩は現代の多くの日本人知識者に高く評価されています。しかし、それは梅岩の弟子たちには十分に伝わらなかったのではないか、と小塩丙九郎は考えています。そのことについて、順を追って説明します。

 梅岩が評価される最大の理由は、賤しき者とされていた商人は社会を支える重要な働きを持っているのであるから、武士と同等に尊き身分であるはずだと主張したことにあります。それまでは、(日蓮が盛んにし、京や大坂の商人たちに熱心に迎えられた)法華教や(北陸地方や近江地方の商人が深く帰依した)浄土真宗ですら、商人が賤しき者であることを覆すほどの積極的な教義はもってはいませんでしたので、梅岩の主張は、当時、“革命的”と周囲に映ったに違いありません。

 梅岩は儒教や法華経(日蓮宗)、或いは神道などの既存の宗教とは正面から立ち向かうという姿勢は見せないままに、庶民、とくに商人、の心の問題に取り組み、次第に多くの賛同者を集めたのです。そして商人を石門心学に強く曳きつけられる力となったのが、商い〈あきない〉は今まで言われていたような賤しい行いではなく、社会を活かす重要な行為なのであり、だから商人という身分そのものが、武士や農民に劣ったものではないのだと説いて、商人の劣等意識を取り去ったことでした。

 そして、石門心学の主張が商人にとってまことに都合のいいものであったのは、石門心学が家、あるいはイエ、の存続を人が生きる目的としていることでした。浄土真宗(一向宗)では、人々は個人として仏(阿弥陀如来)の前ですべて平等であり、信仰を同じくする者は同胞であって家族同様に大切だと説いたのに対して、石門心学は何よりも家、あるいはイエ、を守ることが大切なのだと説きました。

 江戸時代の京や大坂の商家は、今になぞらえば、一家が企業法人であり、商家を守ることは当主のみならず、奉公人すべてにとっての共通の目的でした。極端な場合には、当主は一家の象徴でしかないという場合もありました。血縁相続される当主すべてが有能であるとは限らないのであり、そのために豪商では奉公人のうちから選ばれた有能な者が、実質的に経営を取り仕切ると言うことが行われていました(その詳しい説明はここ)。或いは当主の息子たちに有能な者がいないと思われた時には、外から養子をとって、それを次代の当主とすると言うことは、ごく一般的に行われておりました(それは今の同族経営の企業でもよく行われています)。このように血脈〈けつみゃく〉にこだわらないと言うのは、東アジアでも日本だけに見られる考え方です。

 商家の存続が当主一家のみならず、その親戚一同、さらには奉公人たちにとっての最大重要事であると、理解されているのでした。このことは、商家すべてが幕府や諸藩の官僚による間接管理される株仲間に属すことが義務付けられており、新たな商家の起業が容易ではなかったということにも深い関係があるように思えます。

 このような江戸中期の京や大坂の商人たちの都合に、石門心学の主張はまことにピタリとあったと言えます。

 心学である限りにおいては、それは厳格な教義をもたなければならないのですが、梅岩は商人に倹約を説きました。梅岩のいう倹約は、「世界の為に三つ入る物を二つにしてすむようにする」ことであると言い。自ら一日二食主義を通したのですが(これは当時の将軍であった吉宗と同じです)、それは、食い余した一食は乞食一人の食分ともなるであろうと考えたからです。この点、キリスト新教、殊にカルヴァニズムの世俗内的禁欲(その説明はここ)と似通って見えるのでもあるのですが、しかし、その根本において決定的に違っている、と小塩丙九郎は理解しています。

 なぜなら、梅岩が生きた時代は、17世紀の経済大成長が終わって経済停滞の時代に入り、しかも吉宗の享保の改革によって経済が冷え切っていた時です。そして、梅岩は、そのような硬直した幕府の経済運営に批判的であったわけではありません。倹約は、ひたすら倹約して商家の破産を防ぐためのものであり、カルヴァニズのように、そうして蓄積した資本を新たな事業への再投資資本として利用することを想定していません。つまり、経済停滞の時代の倫理としてふさわしいのであって、経済成長を促すものではないのです。

 だから、経済停滞の時代に株仲間制度を押し付けられた商家に受け容れられたのであり、或いは株仲間のカルテルの仕組み(その説明はここ)を通して、他の商家との諍〈いさか〉いを避けて、安定したイエの繁栄を図るのに適した教義でした。だから、石門心学の教えは盛んに商家の家訓に採り入れられました。そして一方、カルヴァニズムや浄土真宗が主張する隣人への慈善については、沈黙し続けました。そしてそのことは、京や大坂の多くの商家が帰依した法華経(日蓮宗)の教えにすんなりと馴染んだのです。

 梅岩自身は、法華宗より神道の方に傾いていたようですが、しかし心学一門としては、法華宗により近かったように思えます。だから京や大坂の商家は、法華宗徒でありながら石門心学の教えを家訓とするというのが多かったのです。梅岩が死んだ後、弟子の手島堵庵〈てじまとあん;1718-86年〉らによって京や大坂の多くの商人に石門心学の普及が図られるとともに、梅岩が大事にした心学の部分よりも、商家としての生き残る智恵の方が次第に学びの中心になっていったように思われます。

 このように、経済停滞の時代にふさわしい教義であり、しかも幕藩体制に逆らう姿勢を見せず、却って時の政権への帰順を積極的に説いたので、諸藩の大名までもが石門心学の徒弟となり、或いは自藩での普及を応援するあり様でした。どの観点から見ても、石門心学の教義は、カルヴァニズムのそれとは衝突するのです。多くの歴史学者が梅岩を高く評価する一方で、それを平板な処世訓に過ぎないと見て高く評価しない歴史経済学者もいます(例えば宮本又次)。そして、小塩丙九郎は後者に与〈くみ〉します。  

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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