小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

19. 日本の経済倫理の発展と挫折


〔2〕これからの経済倫理を求めて

(1) 石門心学の登場

 浄土真宗〈じょうどしんしゅう〉が栄えた北陸や近江地方以外の地域では、商人たちは一体どういう宗教、あるいは倫理をもったのでしょうか?

 浄土真宗より法華宗〈ほっけしゅう〉が盛んであった京や大坂では、18世紀に石門心学〈せきもんしんがく〉が現れます。石門心学は、最も雄弁に経済倫理について語ったので、現在でも伝統的経済倫理が語られる時には、石門心学がよくもちだされますし、現代の経営者の中でも石門心学が大事だと主張する人が多くいます。


梅岩塾の模型
〔画像出典:File:Galleria Kameoka - Model of Baigan-school.jpg  著作権者 Yanajin33 〕

 江戸時代中期に至る頃には、仏教の多くはその力を失っていました。仏教は中国から伝えられた頃には朝廷の貴族のものであり、国家安泰を図るためのものでした。そして自身の往生を願う庶民に対する救済を主張する法華宗、浄土真宗などの新興宗教が戦国時代に力をもってきます。戦国時代に生き死にを賭けた戦いに明け暮れる武士たちも、自身の心の安寧を願って仏教に深く帰依します。戦国時代には、違った階層の人たちが、それぞれに不安に日々を過ごす中で、様々な形で仏にすがったのです。しかしその戦国時代が終わり、大耕地開発が進んで経済が発展すると、自然に多くの人は現世享楽的な生き方に傾いていきます。

 武士には戦いの行方を祈願する必要がなくなり、武人としてよりも行政官としての役割が大きくなるにつれて、社会を統治する原理がより強く求められるようになりました。そしてその需要に応えたのが儒学であったと言っていいと思います。儒学は、武士が社会を統治、支配することについての正当性を与えました。“考”と言う考え方がことさら重要だ、と儒教は説いていたからです。つまり明日の世の中を真剣に考える武士たちに、庶民は素直に従わなければならないと言うのです。

 石門心学は17世紀初頭、つまりイングランドでブルジョワが絶対王制に激しく反発していた名誉革命直前の頃、そして日本では徳川8代将軍吉宗が、享保〈きょうほ〉の改革を行っている頃に興りました。享保の改革は、歴史学者たちが農本主義者であると説明する8代将軍吉宗が進めたものであり、幕府財政を立て直すために米作の拡大を求め、一方、町人や農民には消費の抑制、倹約、を求めました。

 吉宗はさらに、商人に株仲間を組織させ幕府官僚監視の下で物価統制を行うとともに、新商品の販売を禁止しました(その詳しい説明はここ)。吉宗が代表する幕府官僚には商人に対する蔑視があり、そしてその底には、禅宗や儒学で営利を賤しい行為とする教えがありました。自らモノを生産することなく、商品を人から人へ手渡すだけで利を貧〈むさぼ〉ることは上等な人がやることではないと言うのです。

 その裏にはもちろん、自分たちはモノを生産しないが世を治める崇高な仕事に携わっているのだと言う自己正当化の企てがありました。或いは、より生活実感に即して言えば、18世紀に入って経済が停滞し、自分たちの所得である米の価格に対して消費財の価格が高騰して(米価安諸色高〈べいかやすしょしきだか〉)生活が貧窮化していく一方で、豪商たちの羽振りがどんどん良くなっていくことに対する妬〈ねた〉みがあったのだろうと思います。

 幕府官僚や諸藩の官僚となった全国の武士たちは、等しく庶民の宗教心の発展を恐れていました。武士の間には、政権を自らのものとして奪った加賀国や大坂石山本願寺に籠った(浄土)真宗門徒たちの恐ろしさが忘れられませんでした。そこで、彼らは仏教寺院の権威を奪い、行政組織の一部として取り込むことを考えつきます。すべての人民をどこかの寺院の檀家となることを強制し、幕府や諸藩の行政は、寺院を介して間接的に行うようにしました。現代の住民登録簿にあたる宗門人別改帳〈しゅうもんにんべつあらためちょう〉がつくられ、すべての人の生死や移動はそれによって管理されました。また改帳は、農民の土地所有を証明する検地帳とも連動していました。寺は人民の自由な信仰を行う場所であるというより、政権の現地出張所という性格を強くもったのです。

 そうした中で寺院の最大の仕事は、人民の現世での心の救済ではなく、葬式を執り行うこととなりました。人民には依然として来世〈らいせ;死後の世界〉が信じられ続けており、往生〈おうじょう〉は盛大な葬式を通じて可能になるし、葬式なしには墓を設けることもできません。こうして、戦国時代の頃に盛んであった仏教は弱々しくなり、現代の“葬式仏教”と呼ばれる宗教の形ができあがります。そして現代日本人の多くは、「それは宗教と呼べるものなのか?」という疑問をもち、その中の多くの日本人が、「自分は宗教を信じない」と言いつつ、僧侶が執り行う葬式ヘの参加や盆、暮れのお参りは欠かさずに行うと言う、まことに特異な日本人の信仰形ができあがることになりました。

 そのような時代の中で、商人たちに生きる方法を教えたのが石門心学でした。  

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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