小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

19. 日本の経済倫理の発展と挫折


〔2〕これからの経済倫理を求めて

(5) 現代日本の経営者の経済倫理

 太平洋戦争後の高度経済成長期には、戦後のベンチャーと呼ばれる企業もいくつか勃興し、野心的な企業経営者も出たのですが、それらの者は、それぞれに個性的な経済倫理を持っていました。

 例えば、京セラを設立した稲森和夫は、鹿児島県出身ですが、1997年には、京セラ・DDIの会長を退き、禅宗の一派である臨済宗〈りんざいしゅう〉妙心寺派の円福寺で得度〈とくど〉し僧籍を得ています。臨済宗は、蓄財について、「まず貧しい人には分け与えなさい。物質的に貧しく困っている人には財を与え、心の貧しい人には心の正しい在り方を施し与えるのです」、また「富には一つの法則がある。それは富を慈善のために使った人が幸せになれるという法則だ 」(長野県法城山護国寺HPより)と説いています。

 稲森が生まれた鹿児島県では、旧薩摩藩時代に浄土真宗が厳しく禁止されたのですが、多くの農民や商人は隠れて真宗に帰依していました。稲森の精神の基礎には、その浄土真宗、そしてその基本教義である“自利利他”の観念があります。そして臨済宗に寄与して後、稲森は、“禅と浄土の統一“を言いいます。そして、出身地の鹿児島や京セラが本社を置く京都で、大学(鹿児島大学と京都大学、さらに京都府が建設中の大学施設)に稲盛財団記念館を寄贈し、或いは米国カーネギー財団の持つチリの天文台を支援する等、幅広いフィランソロピ運動を行っています。

 サントリーの創業者である鳥井信治郎は、大阪の両替商・米穀商の次男として生まれ(1879年)、その後船場道修町の小西儀助商店(現潟Rニシ)で丁稚奉公をしていましたが、その後自立しています。これらの経歴から、鳥井は、他の多くの大阪商人と同様に、法華宗の檀家であった可能性が高いのですが、しかし、鳥井が育った時期には、既に石門心学は、衰えていて鳥井に大きな影響を与えることはなかったであろうと推察されます。

 鳥井の次男として生まれ、その後壽屋(現潟Tントリー)に入社し(1945年)、社長に就任した(1961年)佐治敬三は、鳥井の精神的背景をそのまま受け継いでいると考えられます。佐治は、サントリーホールやサントリー文化財団(現サントリー文化財団)の設立・運営を初めとする文化事業への貢献をしています。ただ、財団の出捐金額は16億円、年間事業費おおよそ3億円であり、潟Tントリーの資本金700億円、年事業費およそ2.45兆円(2014年)に比べると、まことに小さい(それぞれ、財団/企業=2.3%、0.012%)ものに留まっています。

 小倉昌男(1924-2005年)は、政府(運輸省)官僚の執拗な事業妨害を跳ねのけて、日本最大の宅配便サービス事業を完成させましたが、小倉はその個人資産のほとんどを障害者福祉を目的とした財団(ヤマト福祉財団)の設立(2001年)と運営につぎ込んでいます。しかし当時の運送業界は、この小倉の行動を理解できないことだとして批判的にしか受け止めるしかありませんでした。小倉は、大病を得て後キリスト新教の一派である救世軍に入信したのですが、その後妻と同じキリスト旧教、カトリック、に改宗しています。小倉は、寄付を行うに当たって、インドを中心として慈善活動に献身たことによりキリスト旧教、カトリック、の聖人とされるマザー・テレサ(1910-97年)を尊敬していると明かしています。小倉の行動は、市場での自由競争と慈善が、互いに矛盾せず共生できることを証明しています。

 これらが、現代日本人企業経営者の行った目立ったフィランソロピ活動の例であり、それらは高く評価されるものですが、アメリカの私立大学が企業経営者の慈善活動、寄付、よっておおよそ設立されており、その後も施設の多くが慈善活動として提供され続けていることと比べると、その規模が小さいことは、残念ながら認めなくてはならないでしょう。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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