小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

19. 日本の経済倫理の発展と挫折


〔2〕これからの経済倫理を求めて

(6) 日本の経済倫理を産み出す(前半)

 経済倫理が特定の宗教の教義に基づくものであると理解すればいいと言える時間が、日本でもヨーロッパでも、長くありました。それでは、その頃すべての人々は、敬虔な信者であったのか? これは、答えるのがとても難しい質問だと思います。これと同等の質問を直接に発した宗教学者も、あまりいなさそうです。しかし、それを間接的に示唆した者は多くいます。

 例えば、日本の古代や中世にも、或いはヨーロッパの古代や中世にも、政権は、税金を払わない者を呪詛〈じゅそ〉して、永遠の来世で地獄に落とすと脅しました。そしてそれは、大きな効果をもちました。このとき、その呪詛を行った側の支配者や僧は、真にその教義の信仰者であったのでしょうか? しかしそれでも、その時々の国民の精神は、その宗教教義に基づくものであり、地域社会を結び付ける原理でもありました。そして実際のところ、多くの人々は、その精神規範を受け容れたのです。

 16世紀にヨーロッパ大陸でなされた宗教改革によって起こされたキリスト新教、プロテスタンティズム、殊にカルヴァニズムがイングランドにもたらされてピューリタニズムを産み、17世紀にイングランドで近代資本主義を産むこととなりました。その時の精神を支えたのは、1つには貴族であった者が土地経営を進める中で資本家的性格を強めたジェントリであり、それが富裕な自由農民であるヨーマンと一緒になって創り上げたブルジョワジーです。そして2つには、中小零細工業者、職人たちが構成した新興中産階級です。そして、カルヴァニズムが、この新興中産階級の精神と最もよく親和したのは、マックス・ウェーバーが認めたとおりです(その詳しい説明はここ)。

 ところで、前者がどれほど敬虔なプロテスタントであったのかという問いを発することは、無益でしょう。答えを知るすべなど、あろうはずはないからです。しかしそれでも、ブルジョワジーと新興中産階級がこぞって、プロテスタンティズムの倫理を近代資本主義の精神とするということについては、ほぼ完全な合意に達していたということを疑う必要はないと思います。そして、日本人が参考にすべきは、プロテスタンティズムの真実ではなく、広範に合意された近代資本主義の精神があったという事実の方です。そしてそれなら、18世紀から19世紀にかけての日本海地域にもはっきりとしてあったのです。そのことが、大切なことだ、と思います。

 既に前項でみたとおり、現在のアメリカの近代資本主義の精神は、17世紀にイングランドで確立したプロテスタンティズムの倫理をよく引き継いだものとなっています。しかしだからと言って、現代アメリカ人のほぼすべてが、プロテスタンティズム、殊にカルヴァニズムに帰依しているというわけではありません。カルヴァニズムが産んだ経済倫理が、現代アメリカ人の精神文化として確立しているということの方が大切なことです。そしてそれは、信仰によってのみ獲得できるものではなく、科学を学んだ教養ある現代人が、主体的に選び、獲得できる精神であるということです。それが可能であるということを、アメリカは、不完全な形であるのかもしれませんが、示している、と小塩丙九郎は思います。

 しかし一方で、アメリカのカルヴァニズムに基づく経済倫理は現代に至っておおいに傷ついています。それは、1929年末に始まり10年間も収束することができなかった大恐慌の中で、人民が自由に行う慈善活動では大量に発生した失業者とその家族の困窮に対処できずに、連邦政府が社会福祉に大幅に介入したことに端を発している、と言うのが小塩丙九郎の見方です(その詳しい説明はここ)。それでもなお、アメリカからカルヴァニズムの精神は未だ失われておらず、例えば他の先進国に比べて圧倒的に高い寄付金そ額のGDPに対する比率(このグラフを参照ください)は、それを表す証拠である、と考えています。

 だから、アメリカの経済倫理はまだ修復可能な段階にある、と考えています。1916年秋に、新たな大統領としてドナルド・トランプと言う奇妙な人が選ばれた段階では、当面のアメリカ社会の動向は予測すべくもありませんが、何れそのようなことについての揺り戻しもあり、深刻な社会格差の拡大を縮小するためには、やはりカルヴァニズムに基づく精神運動が必要であることに、多くのアメリカ人が気付くことになるのではないかと、期待を込めて予測しています。

  2017年1月4日初アップ 2017年1月12日最新更新(項の分割)
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