小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

19. 日本の経済倫理の発展と挫折


〔2〕これからの経済倫理を求めて

(7) 日本の経済倫理を産み出す(後編)

 日本の国の形ということが議論される場合に、日本では、憲法の規定や、様々な社会制度のあり様が話題になることが多いのですが、しかし、それぞれの個人や企業が現世での行為の原理をどこに求め、或いは隣人たる、或いは同胞たる日本人にどのように向かうのかということについては、あまり着目されることがないように思います。日本は単一の民族でできているから、話さなくてもわかるという主張が多いのですが、しかし決してそうではないということは、古代から現代に至る日本人の精神史を眺める中で、明らかにしてきたつもりです。

 現代の日本人の宗教は、一部の特定の宗教に帰依している者を除く多くの者にとって、江戸時代以来の葬式仏教にほぼ依存していると言っていいでしょう(ところで、私自身は、キリスト教改革派の教会で洗礼を受け時々礼拝に出かけ、そして地域の氏神に時々参拝するというほど者であることを告白しておきます)。葬式仏教とは、葬式は仏式で行い、その宗派を決めている場合が多いのですが、その宗派の教義に深く帰依しているわけではないという類の人々の仏教への向き合い方のことです。そして、それは日本人を“無宗教者”と意識させてもいます。宗教に関して言えば、多くの日本人は、ほぼ思考停止の状態にある、と言っていいでしょう。

 現代の宗教学者の関心は、専ら古代から中世にかけての頃の顕密仏教(真言宗と天台宗がその代表)や新興宗教(日蓮宗と一向宗がその代表)に向けられており、現代の宗教については、研究はまったくと言っていいほどなされていません。宗教学者の行動は、日本人が無宗教者であることを半ば認めているようにも見えます。

 そ れでは、信仰はない代わりに近代哲学に根差した生活倫理を人々はもっているのか、と問えば、そうだと積極的に応えることは難しそうです。「人に寄り添う」という言葉が頻繁に使われますが、そのことの意味を深く詮索することもなされてはいません。そして、そのような社会で、社会格差が勢いよく進行し続けていることについて、科学的説明を行う試みがまったくなされていないわけではないが、一定以上の水準に達しているものはなさそうです。ほとんどの宗教者も、沈黙を保っています。例えば、阪神淡路大震災(1995年)や東関東大震災(2011年)の被災現場に、宗教者の姿がほとんど見られなかったことは、よく指摘ます。

 東関東大震災(2011年)のときには、仏教家やキリスト教者が被災現場で捜索に当たる姿が見られています。そのとき以降、仏教の高まりがあると指摘する雑誌(週刊『アエラ』2017年1月16日号の『[大特集]神さま仏さまどこにいる』)もありますが、しかしそれが新たな社会の潮流にまでなるという気配は感じられません。

 ウェーバーが悲観的に予測し、フリードマンが多少ためらいがちにではありますがその実現を期待したキリスト新教、プロテスタンティズム、の倫理が提案した近代資本主義の精神をもった経済社会、つまり自由な市場競争と同胞愛を一体として共存させる社会をつくることを目指さないというのであれば、日本人は一体どのような社会構造原理や倫理をもって、大経済破綻後の日本を復興できると考えるのでしょうか? それ以外のどのような構想が、経済成長もないのに格差ばかりが急速に成長するといういびつな現代日本社会を是正して、多くの人が経済的にも、そして精神的にも豊かな日本という国をつくっていけるというのでしょうか?

 上記週刊誌の中で、作家の五木寛は、「こうしたもの(註:格差や貧困のこと)に直面している人たちは、大きな不安はあるでしょう。しかしそれは経済的不安であって、実存的な不安ではありません。そうした社会お問題は、社会の中で解決するべきです。(註:宗教の勃興の力となる)地獄への恐怖は、そうしたものと次元が異なる超越的な恐怖なのです」と話しています。

 宗教の興りや伝播は、人々が理不尽な地獄の生活の苦しみの中で起こるというのは、五木なりの理解であって、小塩丙九郎が共有するところではありませんし、“経済的な問題”の解決が“宗教や倫理という心の問題”とは区分差あれた純粋に合理的な取り組みの範疇で行えるとも思いません。宗教に過度の働きを期待するのは現実的ではありませんが、かといって宗教に社会問題の解決について何の働きも期待してはならないというのも近代資本主義社会の発展史(その説明はここ)、あるいは戦国時代に加賀国で人民が発揮した1世紀にわたる自治権獲得の歴史(その説明はここ)を無視した理解です。

 3四半世紀毎に大経済・社会構造破綻をおこす経済・社会構造を打ち破る決心をしなければ、その悪しきサイクルを止めることもできなければ、或いはそこから正しく復興することもできないでしょう。日本人は、構造革命を企画すると同時に、それを実現できる自分自身の意識改革を行わねばならない、と小塩丙九郎は考えます。そのための国民的コンセンサスづくりを、経済・社会構造改革の具体案を検討するのと並行してすすめることが、必要なのだと思います。

 今の日本に、キリスト新教、プロテスタンティズム、を持ち込むと言うことはまるで現実的な考えではありません。或いは、あまりにも弱々しくなってしまった既存の日本の様々な宗教の復興を構想すると言うことも、それと同じほどに現実味をもっていません。

 結局のところ、若い皆さんたち自身が、21世紀の日本や世界に相応しい、新たな精神規範、そして経済倫理を自ら産み出していくということがどうしても必要である、と小塩丙九郎は考えるのです。

  2017年1月4日初アップ 2017年1月12日最新更新(項の分割と加筆修正)
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