小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

8. アメリカ第2の産業革命


(10) 慈善活動の爆発(後編)

 1929年暮れのニューヨーク・ウォール街での株式の大暴落に端を発した大恐慌により、アメリカの失業率は25パーセントに達しました(そのグラフはここ)。4人に1人が失業者という凄まじさです。そしてそれが結局のところヨーロッパで第2次世界大戦が勃発してその軍事特需でアメリカ経済が持ち直すまで10年間も続いたわけですから、従来の最低の公的社会福祉施設整備に民間の慈善団体活動がサービスを提供するという体制では、ついに対処しきれなくなってしまいました。

 大恐慌が始まった当時大統領であった共和党のハーバート・フーヴァーがほとんど無策で過ごした後、1933年に第32代大統領に就いた民主党のフランクリン・ルーズベルトは、“ニューディール”政策の一環として、連邦政府が積極的に社会福祉政策に介入すると言う体系をつくり上げました。このため老齢者年金制度や失業保険制度をつくったのですが、社会福祉事業についてはその財源の大半を連邦政府が支出することとしました。州やその他自治体が連邦政府の補助金を得て社会福祉施設を建設するほか、その施設を建設した州や地方自治体がプロのソーシャル・ワーカーを雇用して、福祉サービスそのものを公的に提供する仕組みとしたのです。

 それまで、施設は公的に提供されることがあっても、福祉サービスは民間慈善団体が提供することが中心であったのですが、それが公的に供給されるとなれば、民間の慈善団体の役割は後退せざるを得ません。こうして、施設もサービスも公的に提供されるという新たな国の形ができあがりました。そして多くの社会福祉学者は、これによってアメリカの社会福祉体制がようやくヨーロッパ並みに近代化された、と高く評価するのです。

 この頃すでに増えつつあったソーシャル・ワーカーはプロ化していたのですが、この新たな体制によってソーシャル・ワーカーは民間慈善団体の一員としてではなく、自治体に雇用される高給取りの専門家となったのです。そしてソーシャル・ワーカーの技能を向上させるために、大学院を含めた多くの教育機関が整備されました。こうしてソーシャル・ワーカーは、いわば準公務員化したのです。そして提供する福祉サービスの内容は、連邦政府の社会福祉政策を所管する官僚が策定する基準に則って行われることになり、従来の地域ごとに貧窮者の様子を見ながらソーシャル・ワーカーが自由に適切と思える対人サービスを提供するという社会福祉の形は、随分と後退することになりました。つまり、社会福祉事業がほぼ完全に官僚管理となったのです。

 この体制の中で、社会福祉事業所管の官僚とソーシャル・ワーカーが連邦政府予算を使って行う社会福祉政策を企画し、実行するという形に変わりました。しかし官僚化された事業は、画一化と言う弊害を常に持っており、自由な市場を介さないので非効率であるとミルトン・フリードマンが批判する体制になり、或いは画一的に造られるスラム対策住宅は、それ自体が再びスラム化すると言うことになってしまいました。市場の自由な民間慈善団体の活動の自由を奪ったアメリカの“近代的社会福祉政策”は、多くの社会福祉学者が主張する近代国家としてこれ以外にない望ましい形なのだろうか?、と小塩丙九郎はおおいに疑っています。

 そして小塩丙九郎が最も問題として指摘したいことは、従来は社会福祉対策は政府の責任で行うべきものではなく、人民の自由意思に基づき、そしてキリスト新教、プロテスタンティズム、の理念に基づき、同胞愛、或いは隣人愛や兄弟愛と言ってもいいもの、の発露として、キリスト新教の教義に基づき倹約的な生活を行いながら貯めた財産を寄付して、或いは自身が身体を供出して、行うものであるという信念をおおいに傷つけてしまったということです。

 経営者の中には、冷酷な労働環境を労働者に強いる者も多くいた一方で、雇用の安定や作業環境の改善に心を尽くす多くの経営者も一方ではいたのです。「大恐慌が起こると多くの者が職を失い、運よく職をなくさない者も勤務時間と賃金が削減された」と社会福祉学者は説明するのですが、しかし現場を見れば、景気がひどく落ち込んだ中で、多くの経営者が首切りを何とかしないで労働者の家庭を守ろうとして、労働者一人ひとりの勤務時間を短くして、首切りの人数をできるだけ少なくしようとした、つまりタイムシェアリングの観念を持ち込んだ、と言うことなのです。この頃すでに、“家族経営主義”と言う言葉もあり、社員は家族同然なのだから、労働者とその家族の生活安定を第一に考えなければならないと考えた企業、その代表例はコダックです、も多くあったのです。

 従来の最低の社会福祉施設を公的に整備し、社会福祉サービスは専ら人民の自由に基づく慈善活動に期待するという体系もあったのです。大恐慌のような暴風が吹き荒れるときの応急対策は応急対策として、大恐慌が去った後はバランスの取れた自由な企業活動と慈善活動を混合させるという体系を復元すれば、社会が豊かになるにつれて、苛酷な労働環境を強いる企業を次第に自由な労働市場の中で淘汰していくという発展を期待することも可能であったと思います。

 そして実は、社会福祉を連邦政府が中心になって官僚的に行うと言う体制をとったことが、慈善の精神をもった企業経営者の精神を荒廃させることになったのだ、そしてそれが21世紀の所得格差拡大の遠因なのだ、と小塩丙九郎は考えています(現代アメリカの社会格差については別のところ〈ここ〉で詳しく説明しています)。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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