小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

8. アメリカ第2の産業革命


(9) 慈善活動の爆発(中編)

 資本主義をあるがままに放置すると、資本家は労働者を搾取するのであって、富豪が寄付をするのは、その悪行のイメージを取り去ったり、或いは富を築き上げた後は歴史に名声を残したいのだけなのだ、資本主義は元来不道徳なものだと言う主張が絶えません。そう主張する人によれば、前項で示したカーネギーやロックフェラーの慈善活動も、所詮はそういう類の低次元のものだと言うことになります。

 それらの人々は、資本主義を否定しないまでも(中には社会主義がいいと言う人もいますが)、富裕な者からはできるだけ多くの所得税をとって、それを虐げられた弱者や貧困者に再配分することが国家の役目であり、それが社会正義を成すということなのだと主張します。そのような信念を強くもった人に反論するのは、とても難しいことです。社会の底辺で困難に喘ぐ者を目前にすれば、誰しも誰かを責任者にして批判したくなるものです。

 しかし、資本主義には中世以降世界中どこにもある伝統的なものと、17世紀初頭にイングランドに現れ、さらにアメリカで発展した近代資本主義のふたつがあると言うことを小塩丙九郎の歴史・経済データバンクでは紹介してきました。そして近代資本主義は、自由と慈善を高い次元で並列させることにその基本的理念があると説明してきました。それでは、そのような理念は実際のところ、建国以来のアメリカで本当に実践されてきたのでしょうか? その答えることがとても難しい問いに、この項で挑んでみたいと思います。

 ピルグリム・ファーザーズたちが新大陸にわたって来て(1620年)から1世紀ほどの間、アメリカには富裕な者はほとんどいませんでした。誰しも“日の出から日没まで”働きました。身体的障害があるなどといった余程の理由がないのに働かないのは罪だ、と考えられていました。これは、1601年にイングランドで救貧法が定められた時に、キリスト新教信仰者を含む国中の人が合意していた観念ですが、生産余剰がまったくない17世紀のアメリカでは、これは当然のことでした。この時代、慈善の精神があっても、それを多きに発揮する余力のある人はおらず、労働しないで貧困である者に対して、社会は冷淡でした。

 それでも18世紀後半になると社会に多少のゆとりも出て、都市に流入した貧困者に対して救済サービスを提供する慈善協会が、まず1657年にボストンに最初のものがつくられ、17世紀に入るとその他の都市にもその運動が広がっていきました。当初は同じ宗派の人たちだけを救済対象としていたのですが、次第に宗派を問わずに都市の貧窮者を救う運動に変化してきました。これら慈善協会や友愛会に活動資金を提供したのは、比較的富裕になった人たちで、それはそれらの人たちの自由意思によるものです(この他、17世紀から20世紀初頭にかけてのアメリカの慈善活動に係る歴史についての多くは、今岡健一郎・星野貞一郎・吉永清著『社会福祉発達史』〈1973年〉によっています)。

 この時期に、都市の工場で働く、あるいは地方の農場で雇われて働く労働者の就業環境はいいとはなかなか言えず、過酷な労働を強いた雇用主が多くいたことは否定できません。この時代は、慈善を積極的に提供する富裕者と、そうでない工場や農場の経営者が同居していました。そして、そのことは21世紀に至るまで変わらないと言っていいでしょう。資本主義社会を労働者搾取の社会だと主張する人びとは、後者をことさらに強調するのですが、しかし、メイフラワー号が新大陸に到着して(1620年)半世紀も経たない早い段階から、富裕者による慈善団体が形成され、貧窮者に対する支援が組織的に始められていたことは評価されてもいいと思います。

 17世紀と言えば、日本では江戸時代初期に当たり、耕地面積の拡大と金・銀・銅などの鉱物資源の採掘によって経済的に高成長していたのですが、その時の日本では類似の活動はほとんど行われていません。都市へは農村で食い詰めた男たちが多く流入して、都市の衛生状態は悪く農村地帯より寿命も短かったのですが、それらの人々には組織的な救貧施設もサービスも提供されてはいませんでした。

 19世紀に入り、アメリカの第1の産業革命が進むと富裕者は多くなり、それらの中から“博愛”という名目で多額の寄付金が寄せられ始め、孤児院、病院、老人ホーム、感化院などが、教会が主導して地方自治体の補助を受けて設けられ、民間の慈善団体がそれらを経営するようになりました。一方で、女子や児童に長時間勤務を強いる経営者も多くいたのですが、この頃の行政府は経済活動は自由であるべきと言う観念で、一切の介入は控えていました。つまり、依然として慈善と苛酷な労務が同居する時代でありました。労働環境に介入しない行政府は、慈善活動についても大きくは介入せず、細々とした公的社会福祉サービの足りないところは、専ら民間の慈善団体の活動に頼っていました。この背景としては、都市に失業者が多く発生しても、西部に移住すれば何とかなると言う事情もありました。

 慈善活動の内容は、当初は社会のお荷物を何とか面倒見ると言う上から目線のものが中心であったのですが、貧窮が本人の労働意欲の欠如によると言うだけではなく、困難な環境が人々を貧窮に追い込んでいるという認識も育ち始め、1882年の恐慌と呼ばれる大規模な景気後退の後、セツルメント運動が始まります。知識人たちが地域住民と平等な同胞であるとの意識をもって、都市住民の間に住み入り(セツルメント)、共同して地域の環境改善を行うことによって貧窮の問題を解決しようと言うものです。

 その最も代表的な例が、前項で例示したシカゴのハル・ハウスです。そしてその活動に必要な財源を提供したのが、当時の大富豪の代表格の1人であるジョン・D・ロックフェラーであったということです。富豪の経済支援なしで、セツルメント運動の発展はありませんでした。そしてセツルメント運動は、労働組合の活動を支援していたのですから、アメリカの経営者は労働者を搾取することだけを考える冷血漢と決めつけるのは、適当ではないと思います。

 こうして自治体が僅かながらに社会福祉施設を建設し、その運営を民間の慈善団体が支援すると言う形ができていたのですが、それに大変革をもたらしたのが、1935年に制定された社会保障法です。これが社会福祉についてのアメリカの体制を大変革してしまいました。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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