小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

21. アメリカの格差問題


〔4〕アメリカの格差を解消する政策

(1) 連邦政府の社会福対策の始まり

 アメリカでも、近代資本主義を支える2つの基本ルールは、自由と慈善です。そしてそれを支える基本原理は、キリスト新教、プロテスタンティズム、とりわけ自由都市ジュネーヴで生まれ、イングランドに伝わり(何れも16世紀)、そしてイングランド国王による迫害を逃れたピューリタン(清教徒)たちが新大陸に持ち込み(1620年のメイフラワー号)、それらの者がピルグリム・ファーザーズとして地域建設の理念とし、それを受け継いだ建国の父たちファウンディング・ファーザーズ(Founding Fathers;建国の父)がそれをアメリカ憲法に書き著しました(1787年)。

 そのアメリカ憲法の前文には、国家建設の具体的な目的としては、国防などの国家生存に関するもののほか、国民生活に関することとしては、一般的福祉を促進(promote the general welfare)することと、人民に自由の恵沢〈けいたく;恵みと同義〉を確保する(secure the blessings of liberty to ourselves and our posterity)ことのふたつが書かれています。この“一般的福祉”と言うのが何のことを指すのかと言うことについては必ずしもはっきりとした解説はなされていませんが、それは慈善行為が実現することを目的としたすべてのアメリカ国民生活の一定水準以上の安定を保障することを言うのであろう、と小塩丙九郎は考えています。

 福祉と言うと、普通日本人は国が社会福祉対策を充実することを言うのだろうと考えますが、しかし制定時のアメリカ憲法ではすべての国民に等しい額を要求する人頭税のみを合憲としており、そして連邦税総額のGDPに対する比率はおよそ3パーセントでしかありませんでした。しかもその半分が軍事費に充てられていたので、残りの僅かGDPの1 パーセント余りの金額で、その他の連邦政府業務すべてを実施しなければなりませんでした。つまり、社会福祉を国民すべてにいきわたらせることは憲法上は国家建設の目的とされていたのですが、平常時にそれを実現するのは連邦政府ではなく、国民の慈善事業であるということが建国者たちの理解であったと思います。

 しかし、関税以外に国民に課す税金は人頭税としていたのではとても足りなくなる事態が起こりました。それは南北戦争(1861-65年)です。戦費を賄うために北部アメリカ政府はやむを得ず所得税を導入しました。しかしそれは後に最高裁で違憲判決を得たので一旦撤回するのですが(1885年)、その必要性がなくなることはなかったので1913年に憲法を修正して(修正16条)、所得税を国家の制度として恒久化します。そしてそれによって第1次世界大戦(1814-18年)の戦費の財源を無事確保できたのです。それでもなお、連邦政府予算が福祉対策に使われることはありませんでした。

 所得税が社会福祉対策に使われるようになったのは、1929年末の株価暴落に端を発する大恐慌によって生じた深刻な失業と貧困と言う問題に対処するために巨額の政府予算の支出が必要となってからです。憲法前文にある一般福祉を実現するために国民の慈善だけでは足りなくなり、所得税率を上げて(1920年代の最高所得税率は25パーセントでしたが、1930年代には最高79パーセントに上げられました。下のグラフを参照してください)、連邦政府予算のGDPに対する比率を4パーセントからその2.5倍の10パーセントに大幅に上げ、それによって福祉対策経費を賄ったのです(さらに下のグラフを参照してください)。このときに、社会福祉対策の主流は、人民の慈善活動から政府の予算執行に移ることになりました。これはアメリカと言う国の形の大変化を呼ぶことになりました。

アメリカの最高所得税率
出典:トマ・ピケティ著『21世紀の資本』(2013年)付属on-line Pdf.掲載データを素に作成。。

アメリカ連邦政府予算の対GDP比率
出典:連邦政府予算については:US Government Spending com.、アメリカのGDPについては:Measuring Worth com. の掲載データを素に作成。

 それまで、人民の生活の安寧は、人民の自由意思に基づく人民相互の扶助によってなされていたのですが、突然それが政府の手に移されたのです。もちろん、それまでなされていた慈善活動がすべて停止したということはないのですが、それでも19世紀末にシカゴで行われていた大規模な新移民救済のためのセツルメント運動(その説明はここ)に代表される慈善活動は行われなくなったのです。

 連邦政府は多額の税金を投入してでも社会福祉施策を行うべきであるというのは、リベラル派と呼ばれる人たちの従来からの主張でしたが、それを当時の政権党(大統領を出している党)であった民主党が受け容れました。多くの企業家が大反対を表明しましたが、国中で貧困の嵐が吹き荒れる中で、遂には共和党の議員の多くも賛成して1935年に社会保障法が成立します。

 その政策の妥当性をじっくりと議論する時間がないままに、国の形を大きく変える法律ができあがり、本当にそれでよかったのかというような議論も行えないまま、アメリカは1939年に始まった第2次大戦について国中が忙しくなり始め、そして1941年末に日本による真珠湾攻撃がもたらした衝撃の中で東アジアのみならずヨーロッパ戦線でも参戦し、社会福祉を連邦政府が中心となって行うと言う体制は、そのまま定着してしまいました。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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