小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

9. アメリカが続ける第3の産業革命


〔2〕情報産業の誕生と企業構造改革

(1) 東西冷戦の決着

 1969年7月、アメリカはケネディの公約を実現しました。サターンX型ロケットから射出されたアポロ11号は、3人の宇宙飛行士(ニール・アームストロング船長、バズ・オルドリン月着陸船操縦士、マイケル・コリンズ司令船操縦士)を月軌道にまで運び、そのうちの2人(アームストロングトオルドリン)を月表面に着陸させ、そして3人すべてを安全に地球にまで連れ帰りました。ソ連は、アメリカに追随する経済力も技術力も、或いは産業力も開発することができませんでした。

アポロ11号とソ連月探査機
〔画像出典:Wikipedia File:Buzz salutes the U.S. Flag.jpg (バズ・オルドリン)、File:ZOND.jpg (月周回衛星 著作権者::Ebs08 )

 これによって、東西冷戦の勝負に大きな目途がつきました。そしてアメリカを筆頭とする西側陣営のソ連の主導する東側陣営への優位が、1970年代に固まり、1981年に就任したロナルド・レーガン大統領は、強いアメリカの象徴となったのです。レーガンは、強いアメリカを取り戻すと言って軍事予算を拡大したのですが、そんなことをしなくても、東西冷戦の帰趨は既に決まっていました。レーガンは設〈しつら〉えられている舞台の上で見得〈みえ〉を切って見せたのです。さすがハリウッドの俳優上がりの大役者でした。

 アメリカは、1970年代、そして1980年代の2段階にかけて準戦時体制を解きました。そのことは、連邦政府の最高所得税率の推移に現れています。宗主国イギリスの一方的な課税に反対することに反抗して独立を勝ち取ったアメリカは、元々所得税は不道徳なものであるとして認めていませんでした。しかし、南北戦争を戦うための税源を得るため、1862年にアブラハム・リンカーン大統領は所得税を導入します(所得に応じて3パーセント以上)。

 南北戦争終結後に一旦所得税は廃止されるのですが(1872年)、戦後の復興財源として再導入されました(1894年)。しかしこれは、人口比例でない課税は違憲という最高裁判決により1885年には廃止されます。そして、第1次世界大戦直前の1913年に憲法修正がなされ、所得税が恒久的に導入されることになりました(税率は、1〜6パーセント)(以上、下のグラフを参照ください)。

出典: トマ・ピケティ著『21世紀の資本』の付属on-lineデータを素に作成。

 そのすぐ後に、第1次世界大戦を戦うための戦費調達財源として所得税は大幅に引き上げられ、最終年の最高税率は77パーセントに達しました。これに伴い、1920年の連邦政府総税収に入に占める所得税の割合は、73パーセントにもなりました。戦争が終わるとともに、税率は一旦引き下げられたのですが、1929年に始まった大恐慌を克服するための諸施策の税財源として、最高所得税率は再び6割以上に引き上げられました。大恐慌が収まらないのでそれを引き下げられずにいるうちに、1939年に始まった第2次世界大戦を戦うために、所得税の最高率は9割を超えるほどにさらに引き上げられました。

 この極端に高い税率は、一旦は引き下げられかけたのですが、戦後すぐに始まった東西冷戦を勝ち抜くために9割以上の最高税率が維持されました。しかし、1961年に開始されたアポロ計画にソ連がついてこれないことがはっきりとして1960年代半ばには、最高所得税率は7割に引き下げられ、冷戦での勝利が確定した1980年代以降は、一時期(レーガン大統領の時代)を除いて4割ほどで落ち着いたのです(以上は、連邦税についてであり、他に税率10パーセント以下の各州の所得税があります)。

1970年代まで、アメリカは予算の5割を軍事費に割くという準戦時体制にあった。

民生産業に優れた人材は割かれず、日本やドイツの追い上げを許した。

1970年代から1980年代にかけて、アメリカは準戦時体制を解き、民生産業開発に復帰した。

途端に日本とドイツは苦しくなった。

 レーガンの派手な動きに関わらず、アメリカが冷戦勝利を確信して実質的に社会・経済構造を徐々に変化させていたことは、アメリカの最高所得税率の推移をみれば、よくわかります。

 中には、1981年に大統領に就任したロナルド・レーガンは国防予算を増額したではないか(軍事予算の推移についてはこのグラフを参照ください)との反論する者がいるかもしれませんが、しかし国防予算の連邦予算総額に対する割合は、既に見たように、第2次世界大戦中の最高9割、そして東西冷戦中の最高7割から1970年代には既に2割強にまで下がっており、レーガン大統領が国防予算額を増額した後も、その比率は3割にも遠く届いていません。精々が、アメリカがソ連に対して最後の引導を渡すための駄賃程度のことでした。そしてそのことは、1991年のソ連邦の崩壊をもたらすこととなります。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
©一部転載の時は、「『小塩丙九郎の歴史・経済データバンク』より転載」と記載ください。



end of the page