小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

9. アメリカが続ける第3の産業革命


〔1〕情報産業の誕生に向けて

(2) 軍事産業技術は発展し続けた(前篇)

 第2次世界大戦が始まる前19世紀末から20世紀初頭にかけて、アメリカの産業発展を支えた自動車、鉄鋼、鉄道、化学などの産業に、そして1910年代以降は航空の各産業に優秀な技術者が集められていたのですが、第2次大戦の勃発とともに、日本を含むどの国とも同様に、有能な技術者は軍需産業に集められました。航空、造船、機械産業であり、そして最も先端的な部分は原子爆弾開発のための巨大なマンハッタン計画に投入されました。

 投下された連邦政府予算はおよそ19.5億ドル、現在価格に直すとおよそ2.6兆円に相当する巨額でした。もっとも、年当たりの国防費総額に対する割合は1パーセントを少し上回る程度なのでアメリカの財政にとって重大な意味を持つ程の値ではありません。しかし、その結果製造されたのがたった2発の爆弾で、予算のほぼ全額が研究開発費に投入されたことを考えれば、やはりその額はあまりに巨大です。

 物理学者のロバート・オッペンハイマー、量子力学をリードするニールス・ボア、エンリコ・フェルミ、数学者のジョン・ノイマンやスタニスワフ・ウルム、物理学者のオート―・フリッシュ、ノーベル物理学賞を受賞した物理学者のエミリオ・セグレ、同じく物理学者のハンス・ベーテ、後に水爆の父として知られる理論物理学者のエドワード・テラーやリチャード・ファインマン、など何れも名のある研究技術者が一堂に会しました。

トリニティ原爆実験
〔画像出典:Wikipedia File:Groves Oppenheimer.jpg(グローヴスとオッペンハイマー)、File:Trinity shot color.jpg(トリニティ実験)〕

 ハーバード大学やカリフォルニア大学の学生も招聘され、さらには、コンピュータのない時代に厖大な計算をこなすために数学に優れた高校生まで集められました。マンハッタン計画に動員された科学者と技術者の総数は、7千人にのぼります。ただし、この数ついては諸論あり、正確な数字は分かりません。7千人と言うのは、そのうち最低レベルの数字です。

 このように、マンハッタンプロジェクトに投入された政府予算の額の大きさや研究技術者の水準と数を知れば、なぜナチスドイツが投げ出した原子爆弾開発にアメリカが成功したのかがおおよそ推察できます。同じ時期の日本の陸海軍や帝国大学での技術軽視の風潮(それについてはここで詳述しています)と合わせると、近代戦を戦うための国体は一体どういうものでなければいけないのかということが理解できます。

 原子爆弾開発で世界の先を制したアメリカは、1952年、エニウェトク環礁での実験を成功させて、水素爆弾開発でも先行しました。しかし、原子爆弾に続いて水素爆弾の製造技術もソ連のスパイに奪われ、そのリードは翌年にソ連が実験に成功することによってたちまちのうちに失われました。

1940年代から1960年代まで、アメリカの最有能な頭脳は軍需産業に集まり、

軍事産業技術の身を発展させた。

 以降、核技術開発競争は、爆弾の小型化とその最も効果的な輸送手段である大陸間弾頭ミサイル(戦略ミサイル)に舞台を移しました。そして宇宙技術が米ソ両国にとっての最重要技術開発分野となります。その技術開発の成果を国民にアピールするのに最も効果的だと考えられたのが、衛星射出ロケットと有人ロケットのそれぞれの開発でした。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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