小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

9. アメリカが続ける第3の産業革命


この章のポイント
  1. 1920年代後半以降、1970年代後半までの半世紀間、アメリカの民生産業技術に革新はなかった。

  2. 1940年代以降、軍事産業技術は革新した。第1は核技術であり、第2は航空宇宙技術、そして第3に情報産業技術である。

  3. アメリカの産業技術革新の基礎には常に数学があった。

  4. NASAは、柔軟な組織構造をもち、システム工学を躍進させた。

  5. 東西冷戦が終わると、情報産業技術が民生産業で発展を始めた。

  6. 所得税制が緩和されるとベンチャーが勃興し、そして大発展した。

  7. 情報産業の核がシリンコンバレーに集約された。

  8. 情報産業はベンチャー産んだが、同時に既存企業を構造改革した。

  9. アメリカの企業構造改革である“restructuring”は、日本のリストラとは異次元のものである。

  10. アメリカの企業構造改革は、新旧企業の入れ替えと同時に進行した。

  11. 情報産業革命は、アメリカ第3の産業革命に発展し、現在も続いている。

  12. シリコンバレーは、アメリカ第3の産業革命を推進するにふさわしい労働市場を備えた。

〔1〕情報産業の誕生に向けて

(1)民生産業技術は半世紀革新しなかった

 南北戦争(1861-65年)が終わってから半世紀間続いたアメリカ第2の産業革命は、1920年代半ばでおおよそ終了しました。それを知覚しないアメリカ人とそれに倣った多くの世界の投資家たちは根拠のない株式投資を拡大し続け、期待と実態の乖離〈かいり〉が限界に達した1929年10月にウォール街で株の暴落が始まったのです(以上の説明はここ)。

 1930年代に入って不況はさらに深刻化し、政府が様々な手を打ったのですが、それは財政政策とか金融政策とか、経済構造を未来に向けて変革するといったものではなかったために、アメリカ経済は一向に成長に向かう様子を見せませんでした。多くの経済学者は、フランクリン・ルーズベルト大統領はTVAなどの公共事業を行ったのたが、ケインズ経済学を理解しないので(ジョン・M・ケインズは、同時代に生きたイギリスの経済学者です)、その規模は中途半端で結局は時期を逸してしまったのだ、などと歴代政府の無策をなじるのですが、しかし、産業構造が基礎的成長力を失ったままなのですから、何をしようと変わりはしなかったでしょう。

ケインズとルーズベルト
〔画像出典:Wikipedia File:Keynes 1933.jpg (ケインズ)、File:FDRfiresidechat2.jpg(ルーズベルト) 〕

 結局、1929年末の株価暴落から10年経っても、アメリカの経済は成長を止めたままでした。ただ、景気回復策の一つとして行われた住宅施策が景気対策に終わらず、未来を見据えた抜本的な住宅市場構造改革に繋がったことは高く評価できます。それは、アメリカ国民の資本蓄積を多いに手助けし、現代アメリカの社会の安定を増すことに大いに貢献しています。そのことについては、章を改めて報告します(現在準備中)。

 繰り返しになりますが、多くの財政・経済政策は、言ってみれば一時しのぎの景気対策であったのですが、アメリカ経済を救うことはできませんでした。そのアメリカを救ったのは、ドイツです。1939年8月に、独ソ不可侵条約が締結され、その秘密条項に基づきドイツ軍とソ連軍が東西両側からポーランドに進駐し始めたことで第2次世界大戦が始まりました。

 その後戦火はヨーロッパ大陸とイギリス及び北アフリカにまで拡がっていくのですが、アメリカは参戦せず、イギリスやフランスを中心とする連合国に武器や弾薬、その他の軍事物資を供給する大兵站〈へいたん〉基地として働き、軍事特需によりGDPを急拡大していきました。こうして、アメリカは自力ではどうしても脱出できなかった経済恐慌状態から抜け出て、再び大躍進を始めました。


 戦争勃発から1年もたたない1940年6月には、ドイツはパリに進駐し、ドイツの勢いは増す一方であったのですが、第1次世界大戦での戦場の悲惨さを知るアメリカ人の多くは戦争に反対であり、自国民を戦場には送らないことを公約にして当選したフランクリン・ルーズベルト大統領(1882−1945年)は、イギリスなどの要請を拒否し続けていました。そして難渋するルーズベルトを救ったのは、日本です。1941年12月7日(アメリカ東部時間)の真珠湾攻撃を奇貨として、アメリカ国民を一気に参戦賛成に変えてしまいました。

 こうして、自国本土を戦場とすることのなかったアメリカは、独り戦争特需を手にすることができました。42万の軍人をヨーロッパとアジアの戦線で亡くしましたが、戦後唯一の経済大国として生き残るという結果を得ることとなりました。ちなみに42万の軍人死亡数は、日本のそれ(212万人)の5分の1にしか当たりませんが、しかし同盟国であるイギリス(38万人)やフランス(20万人)を上回っています。アメリカ国民にとっては、他国が起こした戦争のために多大の犠牲を払わされたと思えたことでしょう。犠牲は大きかった、しかし得たものもとても大きかったということです。

ダウ2次大戦の死亡者数
資料出典:Wikipedia (幅のある数字については、大きな方の数字を採用しました)

 こうして大恐慌を第2次世界大戦の勃発によって脱したアメリカは、1940年代から50年代にかけて、唯一生き残った近代工業国として、自国内の需要の他に主にヨーロッパ諸国の復興に必要な鉄その他の物資を大量供給することにより、大恐慌前から変わらない経済構造のままで、高度成長を続けていくことができました。その間、大きな産業技術革新はありませんでした。

 第2次大戦中には原始爆弾開発が、そして戦後直ちに始まった東西冷戦に勝ち抜くために航空宇宙産業と情報産業技術の革新はあったのですが、それは専ら軍事機密とされて、その成果が民生産業成長には活用されませんでした。しかしそれなしでも、1940年代から50年代のアメリカは十分にやっていけたのです。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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