小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

8. アメリカ第2の産業革命


(7) 第2の産業革命の終焉と大恐慌の始まり

 先に、アメリカの第2の産業革命が3段階の大革新の重なりであるということを説明しました(この図を参照ください)。ここで注目すべきは、第1の生産性の伸び率の山より第2のそれが低く、第2の生産性の伸びの山より第3の生産性の伸びの山がさらに低くなっている、つまり第2の産業革命の勢いが次第に弱まりつつあった上に、1920年代に入ってから、その伸びがほとんどなくなってしまっているという点です。

 これは、第2の産業革命を支えた一連の産業技術開発の種が1920年代に入ってほぼ枯渇した、ということを示唆していると私は考えています。現に自動車産業についても、スローンの開発した多品種大量生産方式という技術以降、現代に至るまで技術改善はたくさんありますが、革新的技術開発は絶えていまます。工業製品の技術革新は、1920年代初頭にほぼ出尽くしたのです。

 だから、アメリカ経済は、1920年代に入って成長がとても難しくなりました。しかし、アメリカ国民は、1910年代までの“毎年高度成長するのが当たり前”という意識から抜け出られませんでした。だから、1920年代に入って、実質賃金(名目賃金からインフレ要素を取り除いた賃金)がほとんど伸びなくなっていることに気づかずに、永遠に経済成長が続くという信念の下に株式投資を続けたのです。

 世界の投資家も、その勢いに追随しました。そして経済実態と株式市場の乖離〈かいり〉が限界に達したのが1929年10月だということです。ウォール街での株価の大暴落が始まりました。その後の大恐慌については、多くの経済学者が様々に細かな指標を分析してその様子を伝えています。そして、現代の多くの経済学者が、アメリカの大恐慌が10年も続き、それからの脱出を第2次世界大戦勃発による軍事特需に頼らざるを得なかったのは、1930年代の歴代政府の財政・金融政策が間違っていたからだと結論づけています。

〈経済学者の変わらぬ主張〉、

経済発展は、すべて政府の財政と金融政策でコントロールできる。

〈本当のところは、〉、

経済は、成長潜在力がないと発展しないし、産業技術発展がないと成長力は枯れる。

 しかし、その分析は正しくない、と小塩丙九郎は考えています。産業技術開発が停止すると、労働生産性が向上せず、その結果GDPは増えなくなります。その産業構造をそのままにして、どのような財政・金融政策をとろうが、経済を再び成長路線に戻すことは不可能です。

 財政・金融施策というのは、産業構造が健全で潜在成長力を持っているけれど、たまたま何らかの外的要因で景気が一時的に冷えたときに、その成長スピードを加減する効力と役割を持っています。しかし、それ以上ではありません。経済停滞が、産業技術開発力の枯渇によるときには、産業技術開発を再び始動する創造的な施策を講ずるか、そうでなければゼロ成長を前提とした社会安定化策、つまり所得再配分計画の見直し、を行う以外に、政府ができることはありません。

 しかし、公共事業の乱発は、結果経済資源を消耗し、或いは将来に返済できない政府負債を重ねることになるので、精々数年間しか継続して行えないはずのものです。金融施策は、潜在成長力のない企業については、何の効き目もありません。それなのに、財政・金融施策は万能であると主張する経済学者が大騒ぎしたために、施策が混乱して、アメリカ経済の傷を深めることとなった、アメリカの大恐慌での悲惨な有様を招来した原理はのように理解すべきだ、というのが小塩丙九郎の考えです。そしてこの経済学者の大勘違いは、現代の経済学者もそのまま引き継いでいます。

出典: MeasuringWorth掲載データを素に作成

 アメリカが次の第3の産業革命を始めるのは、1970年代後半になってのことです。そこから現代に至るアメリカの大躍進が始まります。そのことは、1人当たりGDPの20年間移動平均の推移をグラフ上に描いて、その長期傾向を見ると統計的にも説明できるます(上のグラフを参照ください)。その具体的な中身については、次の章で詳しく説明します。。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
©一部転載の時は、「『小塩丙九郎の歴史・経済データバンク』より転載」と記載ください。



end of the page