小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

8. アメリカ第2の産業革命


(6) アメリカの第2の産業革命の全貌(後篇)

 南北戦争で、工業を原動力とする北部が、農業を主産業とする南部を打ち負かすと、アメリカの産業発展は、さらに勢いを増すこととなりました。工場に工作機械が入り、職人の摺〈す〉り合せ工程が重要となります。そして職工と、それを束ねる親方が力をつけていきます。特許の申請件数が加速度的に増えていきますが、特に日用品の実用新案の類が多くありました。

 1880年前後になって、熟練労働者が急増して(1870年:103万人→1890年:227万人)、高性能工業製品の生産が急拡大します。この大量の熟練労働者の一部を供給したのは、ドイツからの移民ですが、彼らは故国から伝統的徒弟制度(ギルド)を持ちこまずに、アメリカの近代工場生産方式を受け容れました。彼らは、カルヴァニズム(ピューリタニズム)を信仰するアメリカ職人の文化によく馴染んだのです。これが、1880年前後に見られる急速な生産性拡大を産みました。これが先ほど示した3つの山のうち、最初の山に当たるものです。

 19世紀末になると、工場はさらに大規模になり、例えばピッツバーグに大製鉄所が建設されます。この大規模施設を実現するために、資本の集中が促進され、全国規模の大企業が生まれます。軽工業から重工業への発展です。

 19世紀末に鉄鋼王としてアメリカの産業の発展を支えたアンドリュー・カーネギー(1835-1919年)は、イギリス人のヘンリー・ベッセマー(1813-98年)が発明した製鋼法を採用するとともに原材料の供給元を含めた生産体制の垂直統合を実現することにより安価な鋼材を大量に生産し、1889年にアメリカの製鉄量はイギリスを抜き去り、1900年には世界の総生産量の41パーセントを生産するに至りました。

 また、1893年のシカゴ万国博覧会でウェスチングハウスの交流電源が実演されていますが、1890年代から20世紀初頭にかけて電力産業が大発展します。その間、製鉄、電力産業に先行して、鉄道企業が大企業に成長していました。

 工場内では、従来の万能工的職工では工場生産技術の発展に対応できなくなってきたので、親方が教育する職工ではなく、工場、つまり企業、が教育・訓練する技師とスペシャリストとしての職工が生まれ、それらを差配するのは親方ではなく、工場が雇ったオペラティブと呼ばれる大学卒の専門技術者となっていきました。大工場での労働を忌避しないという気質も、カトリック教徒よりカルヴァニズム信仰者の方が、はるかに強くもっていました。

 1880年頃の産業発展が消費財製造業を中心に起こったのに対し、1990年代頃のアメリカの製造業は、重工業に重心が移っています。これが、1900に至る時期の第2のアメリカの産業発展の山をもたらした力です。

 20世紀に入って、1910年代半ば以降の労働生産性の拡大は、従来の摺り合せ工程を極力排して、部品の規格化・標準化によって経験の少ない職工でも組み立てられる工程を科学的に分析するテイラー・システムと呼ばれる工場工程管理技術が導入されます。さらにはフォードを先導として工場にベルトコンベアを導入して行われた今に繋がる大規模な大量生産が始まりました。

 また、この生産方式を支える電動モーターの技術開発と工場への導入がその背後にあります。従来の蒸気タービンでは、工場のあちこちに設置して工場中くまなくベルトコンベアを設置し、走らせるということができなかったからです。いわば、20世紀初頭のエネルギー革命がありました。この方式は、他の産業の工場生産方式を革新し、1910年代の生産性の大発展をもたらしました。これが3つの産業大発展の最後の山に当たるものです。

アメリカの第2の産業革命の3段階構成。
  1. ギルドを脱した近代的工場生産

  2. 生産技術革新による鉄鋼大増産など重化学工業

  3. 1970年代後半以降、エネルギー革命による大量生産と商品の多様化

 こうしてまた、産業革命が1人当たりGDP伸び率の長期にわたる継続という統計数値で観測できることがわかりました。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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