小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

5. 中世ヨーロッパの商人と産業革命


この章のポイント
  1. 中世初期に、冒険的商人が衰えた一方、農業と都市近郊工業が発展した。

  2. 中世のイングランドの発展を可能としたのは、中世の産業革命と2度の農業革命である。

  3. 地球の小氷期の訪れがイングランド社会変革のきっかけとなった。

  4. 農業の技術革新と土地の流動化は、貴族を騎士(ナイト)からジェントリに変身させ、富裕農民(ヨーマン)を産み、それらは農業資本家に育った。

  5. 土地が流動化して市場が自由なイングランドの経済は発展し、ギルドの規制が強いドイツと、土地を流動化させないフランスの経済は停滞した。


(1)近代商工業発展の前段階

 中世ヨーロッパの商業は、先ずは冒険的商人、マーチャント・アドベンチャラーズ、によってもたらされました。冒険的商人とは、遠隔地どうしでは物資の価格の情報が共有されていなことを種にして、遠隔地間交易を行い多額の利益を得る商人のことです。実際、当時の長距離旅行には大きな危険が伴ったのですが、しかし冒険を冒すに足りるだけの大きな利益が一度の旅行で実現しました。

 ちなみに日本について言えば、室町時代であった15世紀の初めから始まった遣明船貿易では、その航海はまことに危険なものでありましたが、しかし無事帰国すれば莫大な利益を上げることができたので(歴史学者脇田晴子の計算では、1隻につき、現在の価額で約19億円、利益率は6割超)、幕府や守護大名と結び付いた堺や博多の商人たちは船を派遣する権利を競って手に入れようとしました。

 また江戸時代に入っては、畿内と北陸、さらには蝦夷地(現在の北海道)を結ぶ航路が開発され、北前船を運行する京、大坂の商人や、あるいは日本海側に散在した廻船問屋は一航海毎に大きな利益を得ました。しかし、幕府が大型外洋船の建造を禁じたので悪天候での難破事件が頻発し、大きな利益率は大きな危険の報酬ということでもありました。

 しかしヨーロッパでは次第に街道や航路が整備され人の交流が増え、中世前期の12世紀の頃になると遠隔地間の価格差が縮小してきて、遠隔地間交易のうまみはなくなってきました。代わって、11世紀から始まった“中世の産業革命”(この具体の内容についての説明はここ)により、農業生産と工業生産が拡大し始め、都市に住む人びとの数が増え、貴族などの大土地所有者の求める高級衣料や高級家具などの贅沢品とともに、庶民の生活財の需要が発生し、それに応じて最初は都市部で、次いで都市近郊の農村部で様々な生活物資を生産する工業が発達し始めました。この地域発展の順序も、中世から近世にかけての日本と同じです。

ロンドンブリッジ
17世紀のロンドンブリッジ
−住宅、商店、礼拝堂を備えていた−
〔画像出典:File:London Bridge (1616) by Claes Van Visscher.jpg〕

 地域産業の最大のものは、織物工業であり、次いで、装身具業、食品業、金物業、木工業、皮革業などでした(おおよその人口割合順;1608年のグロースターシャの軍役名簿による。浜村正夫著『増補版 イギリス市民革命史』〈1972年〉より)。特に、織物工業に従事する労働者の割合は、農村での方が都市より高く、このことは当時の工業の中心が都市より農村部に移りつつあったことを示しています。

 工業と言っても、勿論本格的な工場が生まれるのは18世紀に起こる産業革命後のことであり、この頃の形は、家族が自宅で物品を生産する家内工業でした。商人たちは、それらに材料を提供して、できた製品を受け取り、それを消費市場に卸していました。マーチャント・マニュファクチャラ―と呼ばれる新たな商人の形です。つまり、資本を蓄積した商人たちが工業生産と流通の両方を運営していたということです。そしてこの商人たちが、ギルド、つまりカルテルを仕組むような商人集団、をつくったのですが、その商行為の重要な部分が流通のみならず、生産を含んでいたので、“クラフト・ギルド”と歴史学者は呼んでいます。名前からは、職人がその中核であるように聞こえますが、この時代、職人は家内労働者なのであって自立はしておらず、商人に雇用された関係にありました。

ギルドの会合
17世紀のギルドの会合
〔画像出典:File:Jan de Bray 002.jpg 〕

 クラフト・ギルドが成長すると、やがてそれらは都市を支配する力を獲得しました。イングランドの場合、それは13世紀半ば(1263年)の大蜂起に始まり、14世紀初頭(1319年)の国王エドワード2世のクラフト・ギルドの特権を認可した憲章の制定で終結した、いわゆる“ギルド革命”にその根拠を持っています。これによって、商人たちは都市を統治する市参事会を制して、都市の自治権を得たのです。このような環境の中で、先に述べたマーチャント・マニュファクチャラ―と呼ばれる大商人たちとともに、富裕な小売商の一部と比較的貧しい手工業者を雇用している商人雇主たちが中産階級として育っていきました。

 クラフト・ギルドは、市場を管理することにより価格を高値で安定させて高利益を得たのですが、それは良質の商品の公正な価格を実現する仕組みなのであるとして、利潤追求を悪徳とするキリスト(旧)教の教義に反するものではない、と自分たちの商業倫理を正統化することに成功していました。つまり、市場管理があって初めて商工業活動が正統性を持つのだという主張です。

 これは、江戸時代に株仲間を構成した日本の商人たちが展開したものにとてもよく似た論法であると言えます。或いはさらい言えば、この理屈は、明治時代に入ると同業組合による市場管理が必要であるとの主張の根拠となり、さらに現代日本の業界運営の意義を主張する根拠となって生きています。

 勿論、この段階では、近代資本主義に至る道はまだ用意されてはいません。そしてその理屈を打ち破る新たな市場は自由であるべきだという主張が、16世紀のヨーロッパ大陸で起こった宗教改革で生まれ、17世紀にイングランドで起こった市民革命を通して近代資本主義国家への発展へとつながっていきます。その辺りで、イングランドと日本の辿る道程は、大きく分かれることとなったということです。その様子については、別の章(ここ)で詳しく説明します。

2017年1月4日初アップ 20○○年○月○日最新更新
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