小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

18. 日本第3の大経済破綻


〔2〕計画経済主義者がこだわる円安政策

(2) 固定為替制から自由為替市場へ

 1960年代まで、アメリカの物価は比較的安定していたために、円/ドル為替レートが固定されていれば、輸入価格は安定する、そして輸入価格が安定すれば、工業製品コストも安定して、そして物価も安定する、日本政府官僚や経済学者たちはそう理解して、そしてその状態に満足していました。しかし、1960年代末からアメリカの物価が上昇を始め、そのことが日本の物価の上昇を呼び起こしました(それを表すグラフはここ)。

 しかし、当時の経済学者たちは、日本の物価上昇の原因を実質為替レートの変化に求めるのではなく、大企業による寡占がコストを押し上げたとか、日銀の信用の過度の拡張が原因だと議論したのです。そして、インフレがさらに進むことを恐れた政府官僚や日本銀行官僚は、金融引き締め策を採ります。

 しかしそれでも輸出は減らずに、日米貿易不均衡(日本の大幅黒字)は拡大しました。そして問題の別の根源に思い至った小宮隆太郎たち一部の経済学者は、円の切り上げを提案したのですが、無視されてしまいました。多くの経済学者は、そもそも、円高、それも名目の円高、を“悪”と決め付けていたのです(安場保吉・猪木武徳著『概説 1955-80年』〈岩波新書『日本経済史 8 高度成長』蔵〉より)。日本の官僚と経済学者は、この頃すでに実質為替レート言うことを理解しない名目為替レートだけを見る教条主義的な観念にとらわれていたと言えます。

 もう一方のアメリカ政府(リチャード・ニクソン大統領)がどうしたかと言いますと、貿易赤字が余りに大きくなったので、自衛のため1971年8月に、金・ドル交換の停止(金本位制としたブレトン・ウッズ体制〈その説明はここ〉からの離脱)、10パーセントの輸入課徴金の賦課や物価・賃金の凍結を含む「新経済政策」を打ち出しました。アメリカの強硬な姿勢を読みとった各国政府は、直ちに固定為替レートから離脱したのですが、日本だけは1ドル=360円の固定為替制度を固持しようとして、日銀による多額の為替市場(自由市場)介入を行ったのですが、支えきれず、同年12月にはアメリカに集まった先進10カ国の蔵相は、1ドル=308円に為替レートを変更することに合意しました(ワシントンのスミソニアン博物館で会議が開催されたので、「スミソニンアン合意」と呼ばれています)。

出典::The University of British Columbia, Sauder School of Business, PACIFIC Exchange Rate Service検索エンジンのデータを素に作成

 さらに翌々1973年3月に、アメリカがドルを引き下げたのをきっかけとして、各国は通貨変動相場制に移行しました。つまり、各国は、為替政策を放棄したのです。移行直後には、為替市場は過剰に反応して、3月には1ドル=260円にまで高騰するのですが、しかし次第にその熱も沈静化して、1ドル=300円の時代が1976年いっぱい続き、再び円高が始まるのは1977年初頭でした(上のグラフを参照ください)。

 この時、1944年に構築されたブレトン・ウッズ体制からアメリカをはじめとする先進国のすべてが離脱しました。そして固定為替レート制を当然のようにして放棄したのです。為替市場は、自由化されました。自由化とは、各国政府が為替相場市場にはこれ以降一切介入しないということです。しかしそれでも、日本の政府官僚と多くの日本の経済学者は、このことの意味を理解できませんでした。そして日本は、すべての先進国が放擲〈ほうてき〉した為替政策という手段にあくまで拘泥〈こうでい〉し続けたのです。

 もっとも、日本の政府官僚と経済学者たちだけを責めるのも、少し一方的すぎるかもしれません。なぜなら、アメリカの政府官僚と経済学者も、一度は似たような過ちを犯しているからです。それは、1985年に起こりました。1979年のイラン革命に端を発した第2次石油ショックの影響は第1次石油ショックの時(1973年)とは反対に、日本に対してより省エネ対策が不十分であったアメリカに対してより大きな影響を与えることになりました。そのため、アメリカの物価は激しく高騰しました。

 アメリカ(当時は、ドナルド・レーガン大統領)は、インフレを抑制するため厳しい金融引き締めを行い、金利が上昇したために世界中のマネーがアメリカに集中して、そのためドル高となり、そのことがアメリカの輸出減と輸入増を招いて貿易収支の赤字が拡大し、財政赤字とともに「双子の赤字」を抱えることになったと日米の多くの経済学者は説明します。そこで、貿易収支の改善を図るためにアメリカはG5のうちアメリカを除く4カ国に呼び掛けて1985年にG5蔵相・中央銀行総裁会議をニューヨークのプラザホテルで開催しました。この会議で決定されたのが、いわゆる「プラザ合意」で、円高ドル安に導くための国際的な協調為替市場介入を行うことが決定されました。

プラザホテルとレーガン大統領
〔画像出典:Wikipedia File:Plaza hotel.jpg(プラザホテル)、File:Official Portrait of President Reagan 1981.jpg(レーガン大統領)〕

 しかし、このような理解と説明は、経済事象のすべてが財政と金融政策で説明できるとする狭量な経済学者のいつもの語り方です。そして小塩丙九郎は、この主張に同意しません。以下に、次にその理由を説明します。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
©一部転載の時は、「『小塩丙九郎の歴史・経済データバンク』より転載」と記載ください。



end of the page