小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

1-日本の若者が今置かれている状況


〔5〕 問題は、発展の基盤−自由−がないこと

(6) ついに実現しなかった経済の自由

 加賀国の一向一揆が武力で戦国時代が終わる直前につぶされて以降、日本人の政治的自由は、明治維新に至るまで奪われたままでした。それでは、経済の自由については一体どうだったでしょうか?

 戦国時代から江戸時代にかけて、経済が比較的自由であった時期、あるいは場所は3つありました。1つは、当時のヴェネチアにも似た“自由都市”とヨーロッパから来た宣教師、バテレン、たちから呼ばれた泉州堺です(その詳しい説明はここ)。室町時代以降、遣明船貿易に関わり、そして室町政権が弱ってからは独自の国際交易チャンネルを築いて、泉州堺は繁栄しました。泉州堺は、戦国時代途中、都市を3重の環濠と鉄砲で武装した傭兵で守るという以外に強力な武力をもちはしませんでしたが、その富を上手に戦国大名に売り込んで、つぶすより利用した方が得だと思わせて、独立を守りました。

鉄砲職人 堺の鉄砲鍛冶
〔画像出典:Wikipedia File:Sakaiteepo.jpg 〕

 泉州堺は、当時のヨーロッパの最先端に近い鉄砲生産技術を得た上に、さらに部品の標準規格化と分業体制を実現して、同じ時代の全ヨーロッパのそれに匹敵する大量(およそ30万から50万挺と推測されています)の鉄砲を生産し、かつ流通させていました。これは当時のヨーロッパの最先端の商人の形である工業製品の生産と流通を一体として経営する“マーチャント・マニュファクチャラー”という形態を実現していたことを意味しています。つまり、戦国時代の泉州堺は、自由であった上に、世界最先端の経済構造を実現していたことになります。しかし、この自由な産業構造は、信長と秀吉によって壊滅させられます。

 2つ目は、信長と秀吉が自領の経済発展のために築いた楽市楽座と呼ばれる比較的自由な流通経済体制です(詳しい説明はここ)。それまで、陸上や港の多くの場所に数多くの関所を設けて関税を課していたのを、主要港でのみ関税を集中してとることとして、陸上の関所をすべて廃止して、その上都市では商人に年貢を課すことなく、排他的組織である座を認めず、自由な商売をさせました。このことによって、信長と秀吉の統治する都市は経済発展し、結局、信長と秀吉が港で徴収する関税総額は増えて、そのことは両者の収入を増やすことに貢献しました。信長や秀吉が得た大量の鉄砲の購入代金や常備軍の兵隊の給料は、それを財源としています。

3度、日本には経済的自由があった。
  1. 戦国時代の自由都市・泉州堺

  2. 信長と秀吉のつくった楽市楽座

  3. 徳川時代前期の江戸ベンチャー

 3つ目は、徳川政権になった最初の百年間の間の江戸時代ベンチャー勃興と活躍の時代です(その詳しい説明はここ)。17世紀の平和になった日本では、軍事費が大幅に減ったために、徳川家を初め全国の大名は湿地を埋め立て、あるいは河川の堤防を整備して、水田の大開発を進めたために、石高が増え、それに伴い人口も1,200万人(1,500万人と言う説もあります)から3千万人に増えて経済が大発展しました(下のグラフを参照ください)。そこで成長した武家や庶民の消費力を背景に、多くのベンチャーが生まれ、富豪にまで育っていきました。例えば、清酒業の鴻池〈こうのいけ〉、呉服業の三井、銅炭鉱業の住友などがその代表例です。そしてそれらの成功したベンチャーは、蓄積した富を資源に大金融資本に育っていきました。

江戸時代の人口
出典:人口については、速水融・宮本又郎著『概説 17−18世紀』(岩波書店『日本経済史 1』〈1988年〉蔵)掲載データを素に、耕地面積については、宮本又郎著『1人当り農業産出額と生産諸要素比率』(『数量経済史論集T−日本経済の発展』〈1976年〉蔵)掲載データを素に作成。但し、データのない年については前後の間を定成長率で補完。

 しかし江戸幕府開闢〈かいびゃく〉以来およそ100年がたった頃、干拓できる土地がなくなると、米の産出高が増えなくなりました。そうだとしたら、ヨーロッパのように、あるいは工業を発展させ、あるいは外国との交易を拡大して、農業だけに頼らない経済構造に変革すればよかったのですが、幕府官僚は農本主義の考えを捨てず、成長経済に慣れて放漫経営になった結果の財政赤字をなくすために、商業活動を抑えて幕府の支出を抑え、それでも足りない分を農民に多くの年貢を課す、つまり増税する、という官僚的無策に徹したのです(例えば、8代将軍吉宗による享保の改革〈その詳しい説明はここ〉)。その強引な無策の中で、新商品の開発や販売は禁止され、ヨーロッパのギルドに似た株仲間組織を幕府がつくらせて市場管理体制を強めたので、経済の自由は完全になくなりました。

 結局その体制が長く続いたのですが、当然それがうまくいくはずもなく、19世紀に入ると幕府財政の破綻は大いに進み、1840年代に日本中を襲った天保の大飢饉が生じさせた社会混乱以降は、ハイパーインフレ(高率のインフレ)が進んで、専売事業で国力を伸ばしていた西南日本雄藩に政権を奪われることとなりました。

 藩営の専売事業で地力を養った自信をもつ元西南日本雄藩官僚であった明治新政府の官僚たちは、民間事業の発展を抑えて専ら官営事業の構築に努め、鉄鋼、鉄道、造船、電力、通信など、鉱山業を除く基幹産業のすべてについて、実質的な国営化が進みました(その詳しい説明はここ)。それが行きついたのが生産から流通までのすべてを政府官僚が管理する1930年代の統制経済ですが、それは、1945年の太平洋戦争で一旦終わります。

 しかし、敗戦後にできた政権は、アメリカ占領軍、GHQ、がいる間には、ベンチャーの発展を阻止できませんでしたが、アメリカ占領軍がいなくなると、江戸時代以来の産業毎に団体をつくらせて、それを通じて、あるいは直接に、企業を法律(各種業法)や法律に基づかない“行政指導”によって管理する体制を強化し続けました。現代日本にまで続く、いわゆる“護送船団方式”です。

 アメリカ占領軍がいる間に何とか発展できたベンチャーとは、例えば戦後鉄鋼産業発展の基礎をつくった川崎重工、通産省官僚の指導をくぐり抜けたトヨタとホンダ、あるいは通産省官僚の妨害を何とかすり抜けたソニーなどです(その詳しい説明はここ)。

 しかし、現代に至るも、通産→経産省官僚の産業界を、そして大蔵→財務省官僚の金融界を支配したいという意欲にいささかの衰えもなく、力をなくす企業や業界が現れる度にその生き残りを援けることを自らの権力と権益の拡大の機会と捉える官僚たちによって、あらゆる形の市場介入と企業保護が行われ続けられています。そしてその結果、経済発展に不可欠の新旧企業の交代、特に新産業発展の最も大きな力となるベンチャーの起業は抑えられ続けています。

 こうして、17世紀の江戸時代ベンチャーが活躍したのを最後に、日本の経済の自由は現在に至るまで、実現されない状況が続いています。

2017年1月4日初アップ 20○○年○月○日最新更新
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