小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

1-日本の若者が今置かれている状況


〔5〕 問題は、発展の基盤−自由−がないこと

(5) 日本人が戦国時代に獲得した自由

 日本も戦国時代の頃までは、イングランドにとても似た道を辿って来ました。例えば、イングランドに古代に移り住んできたケルト人たちの宗教(ドルイド教)は、自然そのものが神であって、魂は人と生き物の間を行き来するという縄文人たちの考え方と同じでした。

 そこに古代ローマ人がやって来て、やがて古代ローマの国教となったキリスト(旧教)をイングランド人に広めたのですが、これも6世紀の飛鳥時代に当時の世界宗教であった仏教を受け容れることとなった日本とまったく同じです。そして、時の政権が新宗教と結びついて、人民を支配したということも同じです。

 古代から中世まで

 イングランドと日本はそっくりだ!

 また、商人は賤しい行為をする尊敬できない人々であると言って差別した理屈も、日本とイングランドでまったく同じです。その中で、抑圧し続けられた人民を救済しようとして、中央政権と同体であった大宗教権力から離脱して、「仏に一生懸命に祈れば必ず救済される」という新興宗教、例えば「南無法蓮華経(「法華経の教えに帰依します」の意)」と祈れ続ければ必ず来世で往生できると説いた法華宗(後に日蓮宗と呼ばれるようになります)、が出てきたところも、まったく同じです。

 そして、このことについての歴史は、今ではほとんどの歴史学者が敢て無視しようとしているのですが、16世紀の自由都市ジュネーヴに現れたカルヴァンとほとんど同じ教義を打ち立てた新興宗教が日本に現れました。浄土真宗です。

 カルヴァンの興したキリスト新教と

 中世日本に興った浄土真宗は、本当によく似ている!

 浄土真宗は、仏(ホトケ)の前で人はすべて平等だと説きました。仏に祈るのに、僧侶の力は必要としないという発言は、カルヴァンのものとまったく一緒です。カルヴァニズムでの牧師も、浄土真宗での僧侶も、信仰者の単なる介添え人にしかすぎず、決して信仰者より偉い存在ではありません。カルヴァンの教えは、イングランドの資本的経営をするブルジョワと職人によく受け容れられたのですが、浄土真宗も農民とともに当時の賤民とされた芸能人たち、そして賤しい行為を行うとされた商人たちにもよく受け容れられました。

 カルヴァニズムでは、同じ新教を奉ずる者はすべて同胞であるとし、神と人との関係が最も基本となるのだから、同胞は家族の者と同じように大事に扱わないといけないと説きました。“隣人愛”という言葉は、そういう考えに根差しています。浄土真宗も、真宗を信ずる者はすべて同胞であるとして、地域の繁栄を家族の安寧と同じほど以上に大事と考えました。

 カルヴァニズムは、同胞に対する慈善をとても重んじましたが、そのことについては、浄土真宗も同じです。違っているのは、カルヴァニズムでいうすべてを神が計画しているという予定説をとらず、懸命に祈れば必ず仏に受け容れられて往生できる(死後、仏の国である西方浄土に行ける)と説いたところだけです。

 戦国時代の日本では、

 イングランドより早く人民革命が起こり、1世紀続いた。

 そしてさらに似ていることは、17世紀にイングランドのブルジョワたちはカルヴァニズムの考えを共有して市民革命を行ったのですが、15世紀末に加賀国(現在の石川県から能登半島を除いた地域)の一向宗徒(いっこうしゅうと:浄土真宗信徒のことを当時そう呼びました)が、中央から派遣されてきていた守護大名を追い出して、人民だけで統治する体制をつくりあげました(詳しい説明はここ)。

〔画像出典:Wikipedia File:Rennyo5.1.JPG 〕

 これは、日本の方がイングランドより1世紀半も早い時期に人民革命を行っていたということです。イングランドの市民革命では、王を排除せずに立憲君主制にしたのですが、加賀国ではすべての既成権力者を追い出したのですから、加賀国の方がより徹底した革命を行ったことになります。

 しかし、日本の歴史では、加賀国の一向一揆は農民の一時の反乱に過ぎないとされ、現代の石川県の人々の間では、「一向一揆を起こした農民が農地を荒らしまわったとんでもない事件だった」ということにされています。しかし、一時の農民の反乱と呼ばれるものは、なんと1世紀も続いたのです(正確には、1488年から1580年まで)。農地を荒らしまわって、1世紀もの間、1国の人民を食べさせ続けられる道理がありません。現代に伝わる加賀国の一向一揆は、後にその地を治めることとなった前田藩、あるいは百姓一揆を心底嫌った徳川幕府がつくり上げた、為政者にとって都合のいい歴史であったことは間違いありません。

 その日本初の人民主体の民主主義国は、上杉謙信、織田信長、そして前田利家という歴史学者がヒーローと呼ぶ武将たちに順に攻められて、厖大な数の死者を出した末につぶされることとなりました。イングランドで17世紀にカルヴァニズムを理念として起こった市民革命は近代国家をつくる基礎なったのですが、15世紀末から百年間にわたって戦国時代に加賀国で成立していた人民が統治する政体は、16世紀末に戦国武将によって崩壊せられ、今では極悪百姓の狼藉〈ろうぜき〉話として残されているという次第です。これは、今の日本の若者が知るべきでありながら決して知らされない、“日本の天安門事件”です。

 この加賀国の一向宗徒の一揆は、すべての事実が隠されているというわけでありません。私も秘密文書を手に入れたわけではなく、公に発行され公立図書館にも収められている書籍を通じて得た知識です。しかしそれは、普通の若者の目に触れるような場所には、決して登場することはなく、上杉や信長や利家のヒーロー伝説の陰に置かれ、多くの歴史学者の手によって意図して無視されているという始末です。加賀国の一向宗徒の一揆で人民自治があった百年間が一体どのようなものであったのか、どうしても知りたがったのですが、小塩丙九郎の力ではそれを記述したいかなる資料にも出会うことができませんでした。

 一向宗徒の一揆のことを書いたすべての歴史学者の興味が、専ら武家政権と一向宗徒の戦いのあり様にだけあって、自治の内容にはなかったからです。しかし、一向宗徒が治めた百年間、加賀国は戦いに明け暮れたわけではなく、その大半は平和な時期であったのです。人民だけの力で、どうしてそのような平和が維持できたのか、私が知りたいのはその一点でした。しかし現代の日本では、すべての歴史学者は人民の歴史には興味をもっていないということです。人民自治にまつわる文書のほとんどは始末されたということでしょうが、それでも必死に探せば何らかのものがどこからか出てくるはずです。しかしその努力がなされた気配はありません。それでどうして、日本に力強い人民主権の国をつくる手立てを考えることができるでしょうか?

 結局のところ、イングランド人が17世紀に得ることができた政治的自由と経済的自由を、16世紀末以降の日本人は享受することができませんでした。そしてこのとき以降、それまでそっくりであったイギリスの歴史と日本の歴史は、その道程を完全に分かつことになったのです。

2017年1月4日初アップ 20○○年○月○日最新更新
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