小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

7. 世界初の産業革命―イギリス


〔2〕産業革命が始まった

(1) 産業革命中の繊維産業

 産業革命前の1589年にウィリアム・リイ牧師が靴下編みの機械を発明して、手編みに比べて10倍の速さを実現していました。この機械には動力は使用されず、家庭で利用されたので、織物工業(=メリヤス工業)は家内工業に留まり、工場工業に発展しませんでした。その後17世紀にも、機械を発明する努力は続けられたのですが、機械は人の仕事を奪うものだとして、労働者には決して好かれませんでした。その後産業革命中も、この機械に対する労働者の憎悪はなかなか収まらず、後年には機械破壊運動(ラッダイト運動:1811-17年頃)に発展することになります。近代産業の発展とは、この労働者の機械に対する憎しみの心の克服過程であるとも言えます。

 1721年頃、トーマス・ロムは1718年に水力による絹糸の撚糸〈ねんし:糸をよること〉機の特許を得て、それを設置した大工場(労働者300人)を建設しました。繊維工業で動力利用の機会が実用に供された最初のものの登場です。しかしこの時にはまだ、撚糸以外の工程に機械は導入されず、フランスやイタリアの生産する糸と競争できる品質のものを生産するまでに至らなかったので、結局、産業革命の出発点にはなりませんでした。

 繊維工業について画期的であったのは、1733年のジョン・ケイ(1704−79年)の飛び杼〈ひ〉の発明です。これによって経糸(たていと)の間に緯糸(よこいと)を素早く通すことが可能となって、織りにかかる時間を大幅に短くするとともに、織布の幅を広くすることもできるようになりました。ケイは、飛び杼の発明から11年経った1744年に、作業場に機械を集中して水力によって動かす工場をつくることを思いつきました。これが画期的大量生産の始まりであったので、このことがイギリスの近代産業革命の始まりとされています。しかしこの大発明も織布工に嫌われ、機械の普及にはさらに20年という長い時間を要しています。産業革命とは、機械の発明のことを言うのではなく、産業構造全体の革新を要するのであるという近代産業革命初の実例になったということです。


ジョン・ケイと飛び杼
〔画像出典:Wikipedia File:John Kay2.JPG(ジョン・ケイ)、File:Shuttle with bobin horizontal.jpg(飛び杼)〕

 1769年に特許を得た、理髪師であったリチャード・アークライトが時計工を雇って紡績機械の組み立てに成功し、大規模企業としての機械紡績を始めました。そして織機を動かすのに水力を利用しました。そこで、紡績工場は、大都市の近くの丘陵に近い寒村に建設されることとなりました。この機械によって、従来のものより強く廉価な綿糸を生産することが可能となりました。

 日本でも徳川時代に優秀な時計職人はいたのですが、専ら装飾に手の入った高価な大名や豪商のための和時計をつくるだけで、その技術が産業開発に利用されることはありませんでした。享保の改革以降、新商品の開発が幕府によって禁止されたためです。時計職人の活躍は、明治維新以降にからくり儀右衛門と呼ばれていた田中久重が田中製作所(後の東芝)を設立して、電信機の制作を始めるまで待たなければなりません。市場から自由を奪うと産業開発も滞るというわかりやすい例です。


クロムフォードの紡績工場
アークライトが1771年にイギリス内陸部のクロムフォードに建設した紡績工場。 中央に動力に使った水車を動かす水の取り入れ口がつくられている。 
〔画像出典:Wikipedia File:Cromford 1775 mill.jpg〕

  1766年には、ジェームズ・ハ―グリーブスが家内工業でも使えるジェニ紡績機を発明し、これは紡績の最終工程に使われて横糸に適した糸を大量生産しました。さらに1979年になると、サミュエル・クランプタンがアークライトとハ―グリーブスの発明を合わせてミュウル紡績を発明し、これで細くて強い綿糸をつくれるようにしました。そうしてそれまでインド製が独占していたモスリン(綿糸や羊毛で平織りした薄手の織物)市場にイギリス製品が割って入ることが可能となりました。この機械の登場で、家内工業はその役目を終え、以降紡績は専ら工場で行われるようになります。
 

ミュウル紡績機
ミュウル紡績機
〔画像出典:Wikipedia File:Mule-jenny.jpg〕

ミュウル紡績工場
ミュウル紡績機を使った工場
〔画像出典:Wikipedia File:Baines 1835-Mule spinning.png〕

 ミュウル紡績機の登場により、紡績工の不足が解消された一方で、大量に供給されるようになった糸を使った織布を行う職工が不足して、織布工の労賃が暴騰するといった事態が起こりました。このようにして、綿織物産業に係る技術の進歩と工場の建設、さらには労働市場の変革が連鎖的に繋がり、イギリスの繊維産業全体の近代化が進みました。

 これは、産業革命というのが一つの大発明がもたらすという類のものではなく、1世紀ほどにも及ぶ長い期間にわたる地道な技術開発と産業構造の変革が積み上がって成し遂げられるものであるということを如実に表しています。そして、産業革命が起こり続けている間に、1国の経済は成長し続けるのだという観点をもつことが重要なのです。経済発展の基礎は、このような技術と経済構造の変革なのであって、決して政府の金融・財政政策であるわけではありません。

 そしてもう一つ注目すべき点は、「新しい機械が導入されたのは、イギリスにとっては比較的新しくて、第一に重要だとは思われていなかった木綿工業においてであり、イギリスにとって最も重要であった羊毛工業においてではありません。伝統への愛着が薄い分野でこそ、進歩的経営への移行が比較的容易に、それでも多くの妨害を受けたのであるが、進んだ」、と『英国産業革命史』の著者の小松芳喬は説明しています。「その後、木綿工業で確立された綿布製造技術は、羊毛工業にも応用され、イギリスの海上支配権が確立されるとともに、イギリスの繊維産業製品が世界市場を席巻するようになりました。「産業革命と海上支配権の獲得とが相俟って、イギリスを世界最強国に押し上げた」と、小松はさらに付け加えています。

 1794年にはアメリカのエリ・ウィトニーが綿繰機を発明して米国産の棉花の利用価値を高め、奴隷を使って綿花を栽培したので、棉花は低廉かつ豊富に供給されることとなりました。「ここに、英米が連携した世界産業革命が始まる」と、小松は言います。しかし、イギリスの繊維産業がそれ以降必ずしも順調に発展したわけでないのは、イギリスが国内市場を自由化した一方で、外国との関係では保護政策をとったことにその原因があります。

 産業革命の初期のイギリスは、機械の輸出を禁止するとともに、綿布の輸入にも高関税を課し、或いは輸出奨励金を支払うということをしていました。それまでイギリスの最も重要な工業は羊毛工業でありました。14世紀前半までは、ヨーロッパ大国に織物産業の原料である羊毛を輸出していたのですが、その後1世紀ほどの間に、国内に羊毛工業が興隆し、原料を自給できるイギリスは、短期間のうちに世界最大の羊毛品輸出国となりました。そして羊毛品が国を支える最大の輸出品となりました。その伝統ある羊毛線産業界には厳格な規格が様々にあり、そのことが産業の革新を妨げていたのです。

市場の自由は、
国内的にも国際的にも実現する必要がある。
そして
保護主義は、産業を結局は衰退させることになる。

世界の産業革命を成し遂げたイギリスが教訓

 政府の保護政策に慣れたイギリスの羊毛工業者は、沈滞し、生産方法の改善も、新意匠の工夫も、新市場の開拓も熱心に行われず、19世紀初頭には新興工業である木綿工業のために輸出工業の第1 位という地位を奪われるまでに至っています。市場は国内で自由であればいいのではなく、国際市場での自由を実現し、それに打ち勝つだけの産業力をつけるよう努力することが大事なのだということを、世界で初めて産業革命を成し遂げたイギリスは証明したのです

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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