小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

7. 世界初の産業革命―イギリス


〔1〕産業革命前夜

(2) 産業革命前夜の工業

 これ以降のイギリスの産業革命についての具体的事実については、その多くの情報を小松芳喬著『英国産業革命史』(1991年)によっていますが、一部の必ずしも正確ではない情報については他の専門家等の見解を参考にして修正し、また関連する多くの事項を大塩丙九郎の独断で付け加えていますので、全体の文責は大塩丙九郎のものであることを最初に断っておきたいと思います。

 かつて強い力を持っていたギルドは、もはやほとんどなくなってはいましたが、客の注文を待って生産する独立手工業者は都会にまだ多く存在していました。とは言え、近代資本主義が根付き始め、資本や、管理や、市場に関して、大企業者や大商人に依存する傾向は次第に強まって来ました。

 炭砿業、製鉄業、製銅業、造船業、醸造業、製糖業、製塩業、石鹸製造業、硝子製造業などにあっては、18世紀前半ばまでにある程度大資本が投資されていました。特に鉱山会社の中に規模の大きいものが多く、1万人もの労働者を雇用していたのですが、それらの多くは新興工業でした。

 当時のイギリスで最も重要な工業といえば羊毛工業ですが、家内工業であり、国内各地に散在していました。そしてこの産業では、近代資本主義が最も早く浸透していました。織元が原毛を購買し、刷整、紡績、織布、縮紋、仕上、と順次別々の家内工場に加工させる方法がとられていました。富裕な織元は、数百人から数千人の手工業者に仕事を与えていました。中でも最も重要な工程は織布ですが、これは名目上は独立した工場での労働の形をとっていましたが、実質的には織元に雇われた賃労働でした(「前賃問屋制」と呼ばれています)。

 新興工業地であるヨークシャーなどでは、小規模な共同作業場をもつ織元がいました。農民の性格を持ち、農耕を営むと同時に、自ら工業労働に従事していたのですが、徒弟を持ち、職人を使っていました。こうして織物産業が発展するにつれて、16、17世紀を通じで、工業は都市から農村へ移行しました。これは、ギルドが有力であった都市の経済統制から逃げること同時に、水車を動力して使うようになって、都市より農村の方が具合がよかったというような事情も背後にはありました。

 ただ、近代資本主義が進行していたとはいえ、依然として徒弟制度が採られ続けていたので、労働市場の自由度は直ぐには改善されませんでした。18世紀後半になるまで、スコットランドの炭鉱や岩塩鉱では、一生移動の自由を持たないままの労働者もいたのです。ただ中でも梳毛(そもう:短い毛を取り除いて長い毛を整えた上で梳〈す〉いて、紡績ができるようにすること)工程は特別な技能を必要としましたので、熟練職人は比較的早い時期から独立していました。

  彼らは都市間を移動して職を求めるので、雇用者への依存度が低く、労賃も高いものでした。労働者の中で最も早く結社したのは、この梳毛職人たちで、18世紀前半に、この結社は全国に普及し、1720年と1749年にはストライキを行っています。こうして、近代的資本家が育っていった一方で、新たな自由労働市場もでき始めていたということです。

 ちなみにこの時期の日本では、8代将軍吉宗が行った享保〈きょうほ〉の改革によって株仲間制度がつくられ、市場の自由がほとんど奪われてしまっていました。そしてこの頃から、イングランドと日本の経済・社会発展のコースは、大きく離れて行きました。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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