小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

11. 停滞から崩壊に至った徳川幕府経済


〔3〕大商家の変貌

(3) 大商家は今と変わらないOJTで人材教育

 大商家での幹部候補生の職業人としての教育は、10年間から15年間に及ぶ丁稚奉公の過程で、今で言うOJT(on the job training)と言う形でなされました。その実施方法は、子細に定められており、例えば三井二代当主高平の定め(「宗研孟退書」)によれば、12、3歳で採用した後、数年毎の教育・研修内容を年齢順に定めています(下の表を参照ください)。

三井家の終身雇用
出典: 正田健一郎著『江戸時代の都市・流通機構と市場』(宮本又郎著『日本企業経営史研究』〈2010年〉蔵)の記述を年表にまとめた。
原典: 二代目三井高平(1653〜1737)の著した「宗研孟退書」


 教育内容はその商家独特のものであって汎用性はなくても、中途で他の大商家に転職する可能性は誠に少ないので構いません。ただ、1660年代には鴻池が編み出した複式簿記は三井も開発しているので、恐らく三井家の場合にも早い段階から高度の経営技術が編み出されていたでしょうから、その教育内容は低いものであったとは思えなません。

 ちなみに、世界初の複式簿記は、それより4世紀先立つ13世紀末にフィレンツェで発明されています。そして、ヨーロッパのギルドやクラフト・ユニオンの場合は業種別組織が学校制度を産み出して、それぞれの店の外部でも専門教育を行っているのですが、それと江戸時代の日本のあり様とは随分と違います。株仲間といえども、その機能の範囲は限られていました。また、既に述べたとおり、幕府は技術革新というのを嫌っていました。

 大商家が共同して設立した学問所としては、享保の頃より大坂の船場に設けられた懐徳堂〈かいとくどう〉がありますが、ここでは朱子学を中心とした思想教育を目的としており、経済・経営や科学技術などの実学については教えていません。このほか京・大坂・江戸3都には、商家が出資したものではありませんが、町人が学者と集える場所として石田梅岩を開祖とする石門心学の講舎が置かれましたが(石田神学についてはここで詳しく説明しています)、これも神道・儒教・仏教の三教合一を基礎とする哲学或いは道徳を論ずるものであって、実学は扱ってはいません。大坂で、天文学や電気学、或いは本草学(薬学)について学ぶ商人たちもいましたが、それは隠居の身の教養であって、実業に繋がるものとはされていませんでした。

 一方ヨーロッパでは、中世から既に実学を教える学校が諸所にありました。例えば、13世紀半ばのイギリスのオックスフォードには実業学校があり、商業通信の技術、法的文書・契約書・簿記の書き方を教えていました。それから数世紀も下った江戸時代の日本では、近代的な私立大学の設立に繋がる要素はなく、商家の従業員が実学を学べる場所は、商家の中にしかありませんでした。実践的な教育は、要するところ専らOJT(on the job training)によったのです。これでは、ハード・ソフトとも、技術の発展は、まことに緩やかにしか進まないことになります。

 江戸時代の日本では、科学を探究し、或いは新技術を開発することを目的とした近代的な私立大学設立に繋がる要素はなかったと言っていいでしょう。そして、懐徳堂も石田心学講舎も幕末を生き延びていません。ただ、商人道を訴えたい住友の意向で大正年間の1916年に懐徳堂が復興されていますが、太平洋戦争敗戦後、大阪大学〔法文学部〕に吸収されています。このようにして、江戸時代には経営学や科学技術などの実学を教え、開発する教育・研究機関は育ちませんでした。江戸時代に様々な技術が発展しなかった一つの理由である、と小塩丙九郎は考えています。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
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