小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

10. 終身雇用を棄てたアメリカ労働市場


(5) アメリカの工場労働者の雇用史(前篇)

 19世紀のアメリカの経営者は、工場労働者は短期雇用するものであると考えていました。ホワイトカラーに比べて、ブルーカラーの人々が同様に優れた信頼できる労働力であるとは考えていなかったのです。特に、非熟練労働者については、労働者としての倫理観などまったくないとまで考えていました。すべての工場で、労働者の生産性を上げる最も効果的な方法は、解雇権や懲罰権を持つ職長が、それを脅しの道具として、労働者を駆り立てる方法(「ドライブ・システム」と呼ばれました)を頻繁に使いました。経営者と工場労働者は、敵対する利害関係の下にあると考えるのが一般的でした。経営者にとって、信頼できないブルーカラーの長期安定的雇用を約するというようなことは考えられもしないことでした。

 このブルーカラーを指揮していた職長は、もともと親方と呼ばれた熟練工でした。雇用主に対抗するために、職種を分化して、職種毎に自分たちで組合をつくり、組合員の出入りを制限して、雇用主に対して賃金や労働時間についての雇用条件を争うことができる力を持とうとしました。19世紀のアメリカのブルーカラーの移動率(=年間移動工場労働者数÷総工場労働者数)は、100パーセントを上回っていました。雇い主との間の契約賃金は固定的であるので、ブルーカラーは工場を変えて、つまり雇い主を変えて、自分たちの賃金の向上を図りました。

1日8時間労働を訴える労働者のデモ(1871年ニューヨーク)
〔画像出典:Wikipeda File:8 hour day 1871 frank leslie.jpg 〕

 これを支援したのがクラフトユニオンであり、直接的には自分が属する親方でした。親方たちは、自分たちに有利な労働市場を実現するため、クラフトユニオンをつくり、技能学校をつくるなどして弟子たちの技能向上を図り、そして統一した賃金体系をつくり、雇用主との交渉の中でそれを実現していました。そしてその背後には、それが守られないのであれば、全雇用主を巻き込むゼネストも辞さないという覚悟と脅しがありました。

 しかし、このような親方を通じた雇用主との関係は20世紀に入る頃から変化し始めます。工場で必要とする技術が高度化し始め、それまで必要、或いは十分であった手工についての普遍的労働技術から、工場毎に高度化された専門技術に移行するようになったからです。熟練職工の教育・訓練は近代化された工場で行う必要がありましたし、高度化した技術に基づく生産ラインを伝統的、普遍的な技術の背景しか持たない親方たちは管理することができなくなりました。親方の存在は、次第に形式的になり、遂には職場から姿を消すことになります。

 企業が雇用する叩き上げの職長が親方に取って代わって工場労働者を指揮することとなります。しかし、大学卒のエリート技術者はこの職長が行う工場現場での難しい人事管理と生産管理を行う力を持っていませんでした。20世紀初頭頃から、工場を科学的に管理する必要があるという議論が行われ、一部の大企業で試みられたのですが、多くの工場でこの職長の権限を奪うには、さらに半世紀を要しました。長い間、現代的とも言えない企業経営者の工場労働者についての侮蔑的意識や、職長の権力維持意欲を削ぐことは、誠に難しかったのです。

 しかし、職種毎にユニオン(組合)をつくり、そしてその結集した力でブルーカラーが雇用主に当たるという伝統は維持されました。つまり、企業別ではなく、産業別の労働組合が生まれたのです。そしてその組合活動を強化するために、全国組織(ナショナルユニオン)が当然に生まれました。そして、そうなってもまだ、ブルーカラーと雇用主の間の短期雇用という形態は変わりませんでした。

2017年1月4日初アップ 20〇〇年〇月〇日最新更新
©一部転載の時は、「『小塩丙九郎の歴史・経済データバンク』より転載」と記載ください。



end of the page