小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

5. 中世ヨーロッパの商人と産業革命


(3)イングランドの農業資本家の誕生

 14世紀の半ば頃には、イングランドの農民たちはみんな同じような面積の農地を耕作していました。といって、彼らは自分の農地を持っていたというのではありません。農地を所有していたのは、貴族(騎士)たちです。貴族たちは、封建領主と契約して、他民族との戦争になった時には自ら剣をとって戦うことを条件として、その見返りに土地の所有を認められ、そして安堵されていました。封建領主自身も土地を所有していましたが、封建領主は国王と契約して、領土内の土地所有を安堵されていました。つまり、国王−封建領主−貴族(騎士)の間に土地と武力の提供を交換条件とした契約が成り立っており、それは主従関係であったので、中世ヨーロッパの封建制と呼ばれているのです。

 農民たちは、貴族から土地を借りて耕作して、その地代を貴族に納めていました。この当時の借地契約は、世襲可能の比較的拘束力の強いもの(コピー・ホールドと呼ばれる)でした。農民たちが同じような面積の農地を耕作していたとは、農民間でこの借地面積に大差はなかったということです。

 ところで、ペストに襲われて人口が急に半分になったのですから、多くの農地は耕作する必要がなくなりました。そのときに農民間の格差が発生し始めたのです。僅かながらに富裕であった農民が、需要の下がった農地(借地権)を買い集め始めました。しかしそこで穀物をつくっても換金できないので、買い足した耕地を牧草地にして、肉牛を生産しました。こうして、農民の間に貧富の差が生まれ、次第に拡大していきました。

 この動きに、大地主である貴族も便乗しました。借地が移転されるときに、地主を強く拘束する相続権付きの借地から定期借地に切り替えたのです。また定期借地の期間は、それまで一般に99年間でありましたが、それを21年間という短いものに書き換えました。そうすることによって地主の裁量権が増し、土地はより流動化することになります。こうして大規模化し、効率化する農業は、土地経営者の資産の蓄積を可能としたのです。こうして中世のイングランドに農業資本家が現れました。

 農民の間の格差が急速に拡大し、大規模農地経営者となった富裕な農民(“ヨーマン”と呼ばれます)と流動性が高まった土地を所有することとなった貴族の一部は、大規模土地経営者として生き残っていきました。鉄砲や大砲の発明により、剣による戦いが重要でなくなり、騎士であることの重要性は低下し、農地経営者となった貴族は、ナイト(knight)というよりジェントリ(gentry)と呼ばれるようになりました。

小麦生産に関する指標
出典:University of Warwick研究グループ著“ENGLISH AGRICULTURAL OUTPUT AND LABOUR PRODUCTIVITY, 1250-1850: SOME PRELIMINARY ESTIMATES”掲載データを素に作成。

 一旦半分にまで減少したイングランドの人口は、15世紀半ばよりようやく回復に向かったのですが、その人口増加速度は大きかったのです。これは、一部には穀物の耕作面積が再び増えたことも寄与しているのですが、それ以上に農業生産性の向上効果が大きかったのです(上のグラフを参照ください)。この時期、イングランドは第2の農業革命を迎えました。今度の技術開発の内容は、第1には三甫農法をさらに一歩進めた“穀草式農業”が導入されたことであり、そのことによって休耕する必要がなくなりました。そして第2に泥灰土〈でいかいど〉という新しい肥料が開発されて、それらが合わさって単位面積当たりの収穫量が急速に増えました。そうして、農業資本家の資産蓄積の速さは増していきました。

中世イングランドの発展を可能にしたのは、

中世の産業革命

2度の農業革命

 ここでも再び、国の急速な発展を可能としたのは、技術の革新であったということが重要です。中世ヨーロッパが発展し、その間日本の発展が一部を除いて比較的遅かったのは、一方に産業革命と呼ぶにふさわしい工業と農業についての技術革新があり、他方ではその勢いが政権によって止められてしまったからです。

2017年1月4日初アップ 20○○年○月○日最新更新
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