小塩丙九郎の
歴史・経済データバンク

1-日本の若者が今置かれている状況


〔6〕 3四半世紀毎に大経済破綻しないために

―若い皆さんへの真剣なメッセージ―


 日本は、徳川幕府8代将軍吉宗が幕府財政立て直しのため享保の改革(18世紀初頭;その詳しい説明はここ)を行ってから、市場の自由を認めず官僚が管理し続けています。吉宗が採った方法は、信長、秀吉以来の楽市楽座制をやめて、業種ごとに商人や職人に株仲間という同業組合をつくらせることでした。商売をしたい、或いは仕事をしたい商人や職人は、株仲間に入ることを義務付けられたのですが、幕府官僚は株仲間に商品価格を管理するように命じました。商品価格の高騰が幕府財政を圧迫していると考えたからです。

 さらに、吉宗は商業が発展することを嫌い、農業中心の古い型の経済に留まることを人々に強制しました。吉宗は、農本主義者でした。そしてその統治方法は、吉宗が紀州藩主でいるうちはうまくいっていたのです。一日ニ食の生活習慣を守る吉宗は、人は質素であるべきだと固く信じており、人を奢侈(しゃし;ぜいたく)に走らせる新商品を開発することも、販売することも禁止しました。これで、ベンチャーの起業はできなくなりました。

 それからおよそ半世紀後に現れた老中田沼意次〈おきつぐ〉は、享保の改革が残した経済構造を大変革しました。それまで株仲間は価格を低く抑えるために官僚が利用したのですが、意次は、商人や職人から税を徴収することを思い立ち、株仲間をカルテル組織につくり変えたのです。自由に高い談合価格を決めていいから、商人や職人は株仲間で徴収した税(免許代と売上税)を幕府に上納しろと命じたのです。

 高級官僚と業界の有力者が癒着して、業界組織をつくり、業界への新規参入を難しくして、官僚と既存有力商業者の権益を守るという今の日本に至るまでの日本特有の経済構造の基礎がこのときつくられたのです。新商品を開発し、或いは販売してはいけないという定めは、業界秩序の維持のためにそのままにされました。こうして江戸時代後半期(18世紀初頭以降)には、産業技術開発は一切されなかったのです。

 湿地や沼地を開発し尽くして米作量は増えない、江戸時代初期の貿易収支維持に貢献した輸出できる銀や銅は枯渇した、商工業は市場管理により成長しない、そうして江戸時代後期の経済は停滞し、贅沢を止められない幕府官僚たちが運営する幕府財政の悪化は続きました。その時幕府官僚が思い立ったのは、金、銀貨を品位の悪い(金や銀の含有率の低い)硬貨に改鋳〈かいちゅう〉して、その差益を幕府の歳入とするということでした。そうして、経済が成長しないのに、市場に多額の貨幣を流通させたのです。今でいえば、経済成長もないのに、貨幣、円、を増発して赤字国債を買うのと同じやり口です。

 そのようなことがいつまでも続けられるはずもなく、1840年代に起こった江戸時代最後の大飢饉である天保の大飢饉で始まった経済混乱を収める力は幕府に残されていませんでした。以降、物価は高率で高騰し続けました。そして欧米諸国と交易を始めたときに露見した金と銀との交換比率の差が産んだ混乱が直接の引き金となって、高率インフレは超高率のインフレ、つまハイパーインフレ、に転じたのです。意次が高級官僚と業界幹部の談合で市場を管理する経済構造が構築されてから3四半世紀後のことです。これが日本初の経済大破綻です。そしてそのことこそが、およそ20年後に幕府が専売事業で経済力を培い続けていた西南日本雄藩に倒されることになった一番の原因です。

 1868年に発足した明治新政府は、その経済政策の基本を、基幹産業については官営とする、そしてそれ以外の産業については株仲間に替わる同業組合を組織させて市場管理するということに定めました。西南日本雄藩で成功した経済政策の形を、そのまま明治政府にも持ち込んだのです。また大規模な払下げをうけた企業は、財閥として、情報開示を求められない官僚と癒着した組織とされました。以降、製鉄、鉄道、造船、電力、通信などの基幹産業は国有化され、或いは実質的に官僚管理の下に置かれました。

 市場の管理体制は、年が下がるほどに強化され、例えば製鉄産業は官営八幡製鉄所を母体とした日本製鐵鰍ニいう国策会社にほぼ一本化され、民営の電燈会社として始まった発送電会社群は、地域独占の電力会社と全国を統括する送電専門会社に再編成され、官僚により管理されるものとなりました。そして1930年代には、統制経済体制となり、モノの生産と流通のほぼすべての過程が官僚管理の下に置かれました。

 その体制は、結局のところ産業技術開発と経済成長の何れについても大きな成果を上げませんでした。例えば製鉄産業は世界市場で競争できる低廉な価格の鉄を生産できず、戦争間際まで日本はアメリカからくず鉄を輸入することを余儀なくされていました。“母なる機械(マザー・マシン)”と呼ばれる工作機械も、専〈もっぱ〉らアメリカからの輸入品に頼り続けました。また、艦船の建造技術も、アメリカやイギリスから引き離され続けました。そして明治維新から3四半世紀たった1945年に太平洋戦争敗戦とともに大経済破綻し、再びハイパーインフレが始まりました。日本にとって2度目の大経済破綻です。

 日本を占領したアメリカは、財閥を解体し、大企業の経営幹部を公職追放するなどして市場経済の自由を拡大しようとしました。その様な自由が許される環境を活かして、戦前に政府官僚と日本製鐵鰍ノ抑えられていた川崎重工鰍ゥら分離した川崎製鉄鰍ェ革新的な臨海一貫製鉄工場を建設して、世界と競争できる戦後日本の近代製鉄産業の基礎をつくることになりました。

 しかし、アメリカの占領が終わると、大蔵省官僚、通産省官僚、そして日銀官僚は協力して、産業界の管理体制を強めました。各種業法をつくって、或いは郵便貯金を財源とする施策融資を行うなどして、自由な市場活動を規制・管理し、ホンダやソニーといったベンチャーの成長を阻止することに努めました。

 アメリカ占領の時期に、アメリカから多くの産業技術が日本に移転されましたが、アメリカがソ連との冷戦を勝ち抜くために開発し続けた航空宇宙産業技術と情報産業技術は、1970年代からアメリカの民生産業に解放されましたが、日本に移転されることはありませんでした。独自に情報産業技術を開発できなかった日本は、1990年代には完全に経済成長力を失うこととなりました。

 江戸時代後期の幕府官僚と同じように財政運営に困り果てた政府官僚は、市場を自由にして経済発展を図るということをせず、通貨を大増発して、赤字国債を発行し続けて財政破綻を糊塗し続けていますが、それも既に限界に達しており、太平洋戦争から3四半世紀たった2020年代初頭から半ばにかけて、大経済破綻することはもはや避けられない情勢です。

 しかし、若い皆さんの未来は、その3度目の大経済破綻の先にあります。その時の経済・社会復興を、明治維新や太平洋戦争敗戦後のときにそうであったように、3四半世紀後には大経済破綻することが明白な官僚管理の不自由な市場構造のまま行うのかどうかが、若い皆さんの選択すべきところです。

 大経済破綻すれば、国債残高と高齢者の金融資産は実質的にゼロ近くに戻るので、政府財政は“健全化”し、世代間格差は解消されます。しかし、アメリカや新興国の躍進のもとで日本だけが経済後退するという産業構造はそのまま残されるのですから、若い皆さんの未来が明るいものではない、ということには、依然変わりはないのです。

 既に四半世紀続いている日本の経済停滞、さらには後退の原因をきちんと理解して、自分たちにとっての明るい未来を描けるよう、そして4度目の大経済破綻に自分たちが産んだ、或いはこれから産むことになる子孫を追いやらずにすむよう、今から考え、行動するべきだ、と小塩丙九郎は考えています。そして、若い皆さんが、同じ考えをもつようになることを強く期待して、このデータベースをつくり、運営しています。

2017年1月4日初アップ 20○○年○月○日最新更新
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